レヴィナスが同なるものと呼ぶ領域、かつ、超越論的記述の中立的位相であるその領域の中に、無限が現れないなら、何がそれを<無限に他なるもの>だと言うことを可能にするのだろうか。その時、問題となるのは、それ以上に還元出来ない事実性の領域である。それは、根源的であり、超越論的であり、倫理の選択に先行する暴力の領域だ。それは倫理の非暴力によってさえも前提されている。
 超越論的<暴力>はかくて、意味とロゴスの根元に宿っている。 
 他者としての他者が私のエゴに還元出来ないのは、彼がエゴであり、エゴの形式を持つからである。他者のエゴ性が、私とおなじく<エゴ()>というのを可能ならしめている。それは彼が他者であり、石ではなく、の現実的エコノミー(管理)の手中にある声なき存在ではないからだ。
 何らかの非対称は対称なしにはあり得ない。この対称性は世界のためにあるのではない、実生活の(de réel)如何なるものでもなく、他者性や非対称性にどのような制約も課すものではない。反対に、対称性は非対称性を可能ならしめるものなのである。この非対称性は新たな意味でのエコノミー(管理)であるが、当然、レヴィナスにとっては認めがたいものだろう。
 
『パルメニデス』の(思考)訓練
 ①無限に他なるものはそれが他なるもの、すなわち、<あるものとは他なるもの>(autre que)である限りで、それがそれであるところのものである。<あるものとは他なるもの>(autre que)は私とは他なるものでなければならない。だから、<あるものとは他なるもの>(autre que)はもはやエゴとの関係を逃れられない。それゆえ、もはや、無限に、絶対的に他なるものではない。他なるものは、もはやそれがそれであるところのものではない。他なるものがエゴから放免されるなら、それは、すでに他なるものではなく同なるものである。
 ②無限に他なるものがそれがそれであるものであるのは、絶対に<同>ではない限りである、とくに自己とは他なるもの(非エゴ)である限りである。自己とは他なるものであるなら、他なるものはそれがそれであるところのものではない、ゆえに、無限に他なるものではない。

 『ソフィスト』において、レヴィナスと同様、エレア派とたもとを分かつように見える異邦人は、他者性が否定性としてしか考えられないこと、他者は常に相関的であって、他なるものに関して(πρὀς ἕτερον)言われることを知っている。これは他者がひとつの種類(un εἴδος)(あるいは非概念的な意味での種類<un genre>)であるのを妨げるものではない。
 レヴィナスの側では、他者の他なるもの(l´eteron)への同化を拒否するだろう。しかし、他なるもの(l´eteron)一般への関連無くして、どのように<他者>を思考し、語るというのだ。

 他者への私の関係を言語の合理的一貫性のなかで翻訳することの矛盾と不可能、これは非合理性のしるしではない、むしろロゴスの一貫性のなかではもはやひとは息をつけず、思考が対話と差異としての言語の根源領域で息をのんでいるしるしである。

 
 何故、私のものとして体験されないものは不可能であり、考えられないのか?シェリングが言ったように『自我であることは有限性の原理』であるなら何の為に有限性はあるのか?『理性と我性は、真の絶対性においては、ただ一つの同一物』(シェリング)であり、『理性は先験的主観性の普遍的かつ本質的構造形式』(フッサール)であるなら、理性は何の為にあるのか?
 それをフッサールは原現実Urtatsache、非経験的現実、超越論的現実(殆ど注意を向けられていない概念)、経験の自我的で何ものにも還元出来ない本質と呼ぶ。それは『私の世界の志向的根元』(フッサール)である。ここは『稚拙な哲学者には、独我論やまた心理主義、相対主義が立ち返る暗い片隅であるかもしれない。真の哲学者はこの幻影をまえにして逃げ去るのではなく、この暗い片隅を明らかにすることを選ぶだろう。』(フッサール)

 主観的先験は神の存在に先行し、思考する存在である私にとって現存するすべてに先行する。神は実際、私(の自我)と同様他者の自我にも関係する。しかし、神はいわゆる自我にとってのみ意味をもつのである。それ(主観的先験)はあらゆる無神論やあらゆる信仰、あらゆる神学に先んじて意味している。神の神性(例えば、無限の他者の無限の他者性)は自我一般に対して意味を持たねばならない。

 ついでにいえば、<先験的主観>は中和の全体主義、人間なきの論理学、対話なき終末論・・・いわゆるヘーゲリズムを挫く唯一の可能性である。

生ける現在
 この根源的自我はよりふかくは、生ける現在の原事実としてとらえられる。経験は現在においてしかありえない、ひとは現在においてのみ生きることができる。過ぎ去った他なる現在、来るべき他なる現在、よみがえる絶対的な他なる根源、これら時間的他性は志向的変様の中に、つまり私の生ける現在の中に現れる。単一なる私の生ける現在のみが記憶とか予感とか呼ばれるものをそのようなものとして現さしめるのである。現在している他者と他者としての他者の間に先行性の問題はない。そのような問いは共通の根源を振り向かなければならない。

 <他>があるがままではなく、<同>のなかで<同>によって<同>のためにしか敬われず、<他>の現象の解放自体において<同>により隠されてしまうことを暴力と呼ぶなら、時間は暴力である。生ける現在はその絶対的に無条件な普遍的形式における時間化の運動である。現在は根源的に永久に暴力なのだ。生ける現在は死によって根本的に変質させられる。暴力としての現在は有限性がもつ意味であり、歴史としての意味の意味である。

 何をもとにして有限性と歴史としてのこの暴力について問えるのか?

 レヴィナスは彼が問題視する超越論的現象学をある意味前提している。


(中澤)2021.4.6
                                                                                                                                                                                                                                                                    
 *レヴィナスは、空間は常に、すべてを中和する<同>の場所なのだから、真の外在性は空間的なものではないという。そうではなく、絶対的な、無限の外在性、つまり他なるものの外在性があるという。しかし、何故に非空間的関係を意味するために、<外在性>という空間と光りに連なることばを使用するのか?全体性の言語の中で、全体性を超出する無限を語ること、真の外在性を、非‐外在性として、空間のメタファーである内部‐外部によって語ること、このことが意味しているのは、哲学的ロゴス(言語)はまず内部‐外部構造への移住に身を任せなければならないということだ。自分の場所から<場所>の空間的地点への強制収容は、哲学的ロゴス(言語)に先天的に備わっている。空間は生まれ出ることの傷みと有限性としてある、空間なくしては、言葉を拓くことすらできないし、真であれまやかしであれ、外在性を語ってはならない。Ibid p.165-166

 *存在は歴史なのであり、その所産のなかに隠れている、そして根源的に思考の中で暴力となることで、語られ、現れるのである。暴力なき存在は存在者の外で産み出される。それは無、非歴史、非産出、非現象なのだ。ほんのわずかの暴力もともなわずに生まれる表白une paroleは他者に対し、何も決定せず、何も語らず、何も与えない。それは歴史ではない、せりふune phraseなき表白といったようなものだ。Ibid p.218
 
 *純粋な暴力も純粋な非暴力も矛盾した概念である。顔のない存在間の関係としての純粋な暴力は、いまだ暴力ではなく、純粋な非暴力だ。逆に、<同>と<他>の非関係である純粋な非暴力は純粋な暴力である。顔だけが暴力をとめることができる。が、それは顔だけが暴力を呼び起こすからだ。Ibid p.218
 
 *非暴力の言語は述語機能を欠いている。述語化は最初の暴力である。動詞être<~である>と叙述の行為はすべての動詞と名詞に含蓄されている。非暴力の言語は、突きつめれば純粋な祈りであり、祈祷なのだ。遠くから、他者に呼びかけるために固有名詞を高唱するしかない。このような言語はなおその名にあたいするだろうか?あらゆる修辞学から純化された言語はありうるのか?プラトンはわれわれに語っている。:名詞と動詞の絡み合いを前提せずにロゴスは存在しない、と。クラチュロス(425a)、ソフィスト(262ad)、第七書簡(342b) Ibid p.218
 
 *もし、レヴィナスのいうとおりに、(直観的結合ではなく)言説le discoursだけが正義であり得えるのであり、また他方で、すべての言説が空間と<同>を備えているならば、このことは、言説が根源的に暴力なのだ、ということを意味していないだろうか?唯一平和が宣言される場となる哲学的ロゴス(言語)に戦争が住みついていることを意味していないだろうか?言説と暴力の区別は永遠に到達しがたい地平であるだろう。非暴力は言説の結果le telosであって、言説の本質ではないのかもしれない。言説は、何らか意味あるものとして、結果の中にその本質をもつのだ、と言われるかもしれない。もちろん、ただ、その将来と結果が非-言説であるという条件においてだ。ある沈黙としての平和。語ることの彼岸。しかし、将来的存在であったとしても、結果はつねに存在の形式をもっていたのだ。言説が開かれるまえには戦争はない、言説が終わることによってのみ戦争は消滅する。平和は、沈黙であって、自己によって自己の外へと呼びかけた言語の奇妙な使命なのである。だが、有限の沈黙はまた暴力の要素であるように、言語は戦争を認知し、実践しながら、絶えず正義のほうへ向かうことしかできない。暴力に対抗する暴力。もし、(精神が照らす)光la lumièreが暴力の要素であるなら、悪しき暴力、言説に先行し言説を抑圧する暴力を避けるため、別の光をもつ暴力と戦わなければならない。この警戒は、歴史、すなわち有限性を真摯にとらえる哲学によって、より少なき暴力として選ばれた、暴力である。語ることは間違いなく暴力の解体の始めとなるものである。しかし、矛盾するが、語る可能性がないならば、暴力は存在しない。哲学者(人間)はこの光の戦争のなかで発言し書かなければならない。この光の暴力から逃げれば、言説を否認し、より悪しき暴力ふるうことになるのだ。Ibid p171-173

 *歴史はレヴィナスが批判する全体性なのではなく、全体性の外へ様々に脱出することなのだ。歴史は超越の運動そのものであり、全体性の超過であって、それなくしてはどのような全体性も現れない。歴史は終末論や形而上学や語ることによって超越される全体性ではない。歴史は超越そのものなのである。語ることが形而上学的超越の運動であるとしても、語ることは歴史であって、歴史の向う側ではない。歴史の起源を有限で完璧な全体性〔同〕なかに考えることも、また他方、完璧に実体的な無限〔レヴィナス〕のなかにかんがえることもともにむずかしい。Ibid p173


超越論的暴力

 *フッサールの無限なるものの抑止は、志向性を欲望と形而上学的超越と見做し、そのほんとうの深部達して、現象あるいは存在の彼方の他なるものへ行きつくことを妨げる。レヴィナスによれば、無限なるものの抑止は二つの仕方で生ずるという。

直観の十全性

直観の十全性は全ての距離と他者性を枯渇させ、内面化する。外在性は心(意識)に吸収されてしまう。観照し、十全な観念として、アプリオリに生じ、意味付与よって現れるのは心(意識)だとレヴィナスは指摘する。
 だが、フッサールの様々なテキスト、意味付与la Sinngebungへのその言及は、「志向性としての全ての知は、既に無限なるものの観念、とりわけ不十全性を前提している」『全体性と無限』ことを、フッサールが認識していたと明瞭に理解させるものではないのだろうか。フッサールは無限な地平を予感し、それを<対象指向の思考>pensées visant des objetsとして解釈したのではないか。
 
コギト

フッサールのコギトは無限の対象へとひらいている、他者なき無限、悪無限へひらいている。フッサールがコギトに、その外に支えをもたない主観性を見るなら、それは無限の観念をみずから構成して、対象としてわがものにしていること意味する。以上、レヴィナスの論旨。
 <悪無限>、レヴィナスは決して用いないが、『全体性と無限』における多くの告発につきまとうこのヘーゲルの表現は両者において意味を異にする。ヘーゲルにおいて悪無限は否定によって主体(同)に立ちかえることのない無際限で、無限の否定的形式である。レヴィナスにとっても、同じく無際限ではあるが、真の他性を非-否定性(非-否定的超越)と考え、他者を真無限、同(否定性の共犯者)を悪無限とする。ヘーゲルにはばかげたことに思えただろう。

 同が暴力的全体性であるとするなら、それは同が有限の全体性、抽象的全体性であり、それゆえ、いまだ他なるものの他なるものなのだということを意味する。有限の全体なるものは同なのではなく、なお他なるものなのである。もし、有限な全体が同であるなら、その全体は自身の他なるものにならなければ、全体として考えられないし、行動できない。それは戦争だ。そのようにならないというなら、その全体性はレヴィナスの意味での同ではない。西欧哲学の言語において、自己を掌握するその言語そのものである、ヘーゲル哲学を反復せずにいられるだろうか。
 ヘーゲルによる包摂を一瞬であってものがれるための、唯一の有効な立場は、悪無限を還元不可能なものとみなすことである。それはフッサールが志向の不完全さ、つまり変質性を還元できないものと示しながら行ったことである。還元不可能な存在者についての意識は自己意識にはなれないだろうし、絶対知の再臨に際して、自己へと結集することもないであろう。しかし、そのようなことを言い、経験の真理として悪無限に気づくのは、既に真無限が予想され、現われ、考えられ、語られているからではないか。哲学とよばれるものはたぶん思考の全体ではない、哲学は虚偽を思考できないし、また真理の先行と優位に敬意を払わずには虚偽を選択できない(他と同の間とおなじ関係)。レヴィナスがフッサールへむけることができるこの問いは、レヴィナスがヘーゲルへ反論するやいなや、レヴィナスはヘーゲルを認めることしかできないし、すでにヘーゲルを確証ずみであることを示すだろう。

 地平それ自身は客体ではない、なぜなら、地平は全ての客体一般の客体化できない資源だからである。
 地平の概念の重要さとは、なんらかの構成によって対象を作ることができないということであり、客体化の仕事を無限にひらくことである。フッサールのコギトは無限の観念を構成しない。現象学のなかには地平の構成はなく、構成の地平がある。
 フッサール的地平の無限性が無限の開放という形式をもち、終わることなく構成(客体化の働き)の否定にさらされていることが、あらゆる全体化対し、また他者が一挙に消える充溢する無限の直接的現前という幻想に対し、その地平をまもっているのではないのか?

 <同>への<他>の永久の非還元性、しかし、それは<同>に<他>として現れる<他>の非還元性ではないか?他者としての他者の現象がなければ、(他者への)敬意はありえないだろう。敬意の現象は現象の敬意を前提する。倫理学は現象学を前提する。
 現象学を前提することが唯一の序列だ。現象学は、世間的(現実的、政治的等)の意味において、決して命令しない。現象学はこの種の命令の中和である。しかし、その命令を他のもののに代替えするために命令を中和するのではない。
 倫理学はただ単に、現象学へ解消し、現象学に従うのではなく、そこにその本来の意味と自由と根源性を見出すのである。
 
 理論的なものの二つの意味。①通常の意味、特にレヴィナスの抗議の標的となっているもの。②さらに隠された意味。それによって、現われ一般が、とくに①の意味では非理論的であるものの現われが保持されるもの。
 ②の意味において、現象学はもちろん観想論théorétismeだ、しかし、すべての思考とすべての言語が、事実的かつ理論的に、観想論théorétismeに結びつく程度mesureにおいて。現象学はこの程度cette mesureを測るmesureのである。

*レヴィナスとフッサールの他者に関しての根本的不一致
 
レヴィナスの指摘:フッサールは他者がもつ無限の他者性を逸し、他者を同に還元する。他者を分身とするのは絶対的他者の中和化である。
 その人についてではなく、その人にむかって語る、その他者を主題化できないし、しようとも思わないが、しかし、この不可能性、この命令法自体が、エゴにとっての他者としての他者の現れを基としなければ、(レヴィナスがおこなっているように)主題化できないのではないか。
 『他なるエゴは単なる像ではないし、私において像化された対象ではなく、まさに、この世界に対する主体であり、世界を知覚し、そこにおいて私の経験をもつ主体であって、私として私は世界を経験し、世界において他者をえる。』Husserl『Méditations cartésiennes』 ,trad.Levinasフッサール『デカルト的省察 』レヴィナス訳  私が決してなることができないものとしての、この他者の現われ、この根源的非現象性はエゴの志向的現象として問われている。
 身体やものは超越的、かつ自然的であり、私の意識にとって他なるものである。それらは外部にあり、それらの超越性は非還元的な他者のしるしだ。レヴィナスはこのことを考えない、フッサールはこのことを念頭に置き、ものが問題となるなら、<他者>が何らかの意味をもってくると考える。ものそのものは予測や類比や呈示apprésentationによってしかしめされないからだ。
 超越論的他者(絶対根源の他者、世界方位の他のゼロ地点)は根源的に、それ自身が与えられることはなく、単に類比的に呈示されるだけだ。類比的理解への依拠は、類比と同化による他の同への還元ではない。それは観想による隔たりとその必然性を立証し敬うことなのだ。直接根源的に、暗黙の中に、その固有の体験を共感し他者に至るなら、もはや、他者は他者ではない。
デリダ<暴力と形而上学>抄
他者
レヴィナス 
フッサール
 A 他者の他者性
 
 B 絶対的拒絶

 
 C より深い非ー起源的な次元。回転して、他者の側からものを見ることの徹底的不可能性。


* 他者の他者性は無際限さの二重の力C&C'によって別のものへ還元できない。

 D 体験の主観的局面。


 E 無限の超越
 
* レヴィナスは無限の他なるものについて語り、そこにエゴの志向的変容を認めることを拒否する。全体化と暴力の行為だからだ。レヴィナスは彼自身の言葉の可能性を断つ。
 A´超越論的事物
  
 B' 起源的提示の原理的可能性は原理上かつア・プリオリに常に開かれている。

 C' 私を起源とする知覚の無限の未完了。「空間とわれわれの関係の歴史の中の他者の身体。」


* 第一の他者性C'(身体の他者性)がなければ、第二の他者性Cは生じない。

 
D' 恒常的断片描写にもとづく到達不能性。

 E' 全体性の超越

* フッサールは非-現象態の現象系統を記述している。