エマニュエル・レヴィナスの哲学はアウシュビッツが生んだ哲学である。その哲学の重要な用語である<顔>le visageは、ヘブライズムをにおわせるものだがDerrida
『L'ecriture et la difference』p160、しかし、写真の中のあの鉄条網の向こうに並ぶ顔に思える。ホロコーストがなければこのような哲学はあらわれなかったろう。その意味でホロコーストを生んだ20世紀の哲学といえる。鎮魂の哲学であり、収容所で抹殺された人々が露呈させた人間の根源的倫理の意味を問いかけている。
その哲学の核心について、レヴィナスがみずから簡明に語っている対談『Ethique et Infini』『倫理と無限』と主著のひとつである『Autrement
qu'etre ou au-dela de l'essence』邦訳名『存在の彼方へ』を参照したい。
1.<顔> le visage
Tu ne tueras point 汝殺すなかれ ひとの顔はそう語る。
<顔>は視線の先に認識されるのではない、<顔>はおおうものなく直にさらされ、剥きだされている。あたかも、暴力を誘うように剥きだされ、怯えている。と同時にわれわれに殺人を禁ずるのは<顔>だ。
ふつう、ひとは他者を、脈絡の中で、職業とか、続柄とか、ファッションセンスとか、自己表現の仕方とかをとおして、その人物を見ている。しかし、<顔>はそのような脈絡なしに、それだけで意味をもっている。考えて理解できる内容となり得るものではない。<顔>は超出へとひとを導く。存在の中での、この倫理的な不可思議の現われは、 ― 人間にある人間性の現われは ― 存在の切断である。<顔>への関係は即倫理的なものだ。
他者とは<顔>である。<顔>と<語ること>はむすびついている。
Tu ne tueras point 汝殺すなかれ
<顔>は語る。語ることを可能にするもの、語りはじめるものは<顔>なのである。他者との真の関係を記述するために、レヴィナスは見るという観念を拒絶してきた。真の関係は語る、正確にいえば、それは応答、あるいは責任なのだ。
<語る>とはまさにたわむれではない、<語る>とは言語記号や言語学的体系や多彩な意味のきらめきに先行する。<語る>とは一個の人間の他者に対する接近であり、他者のための約束であり、意味を作り出すことだ。『Autrement』
p17:邦訳p27 単なる時候の挨拶が天候の確認を求めているのではないように。
主題化や意識化をすり抜ける<存在とは別の仕方>が語るのだが、語られたものにおいては、<存在とは別の仕方>はすでに<別の仕方の存在>になっている。だから、<存在とは別の仕方>を抜き出すために語られたことを打ち消すその語りの中に、<存在とは別の仕方>は表出される。
<語る>という行為は他者にさらされる至上の受動態としてあり、他者の自由な主導性をひきうける責任である。だから、至高の能動的主観性、格変化しない主格の主観性は放棄される。主体の定立と位置は奪われる。にもかかわらず、このような脱定立と脱位置は唯一かけがえのないものであり、それが主体の主観性でありつづける。
<それが語る>とか<言葉が語る>というのではない。<語ること>とはロゴスとの相関ではないのだ。存在論を正当化するものは、語られたことの中に集約された存在の向こうへゆく<語る>ことの意味である。
<語ること>はもとよりコミュニケーションである、しかし、あらゆるのコミニュケーションの条件としてであり、私が他者へ暴露されることとしてである。Autrement
p82:邦訳p125自我の中の思考、この思考を他の自我の中へと移行させようとする意志や志向、この思考を示す記号によるメッセージ、他の自我による記号の知覚や解読、この心理学的モザイクの要素は、すでに私の他者へのあらかじめの暴露の中におかれているし、メッセージを送る単なる志向ではない、他者に対する打ち消しがたい関心の中におかれている。コミュニケーションの閂が外れるのは語られたことの中に刻印され、他者による解釈や解読で伝えられる内容によるのではない。それは危険を冒して自己を露出することや、真摯さや、内的なものを破棄し全ての隠れ家を放棄することや、心的外傷にさらされることや、可傷性の中においてのことなのだ。
<語ること>は、裸体の向こうで、あらわになった皮膚がさらされる裏に隠されていることを暴く。<語ること>はこの皮膚の呼吸そのものであり、あらゆる志向に先立っている。<語る>主体は記号を与えるのではない、主体は自らが記号となり、他者への忠誠の中に消える。
表出と贈与に奉げられた身体的命としての無私の様態。他者に意味もなく召され奉げられたのであって、自分から奉げたのではなく、供物の、苦しみの、外傷の可能性として受肉する自己に反する自己。そのようにして、<他者のために>あること、つまり意味そのものは<自分のために>なることを免れる。
ある場合にはあなたの言うことは肯定されるが、別の場合、暴力や憎しみや軽蔑によって他者との対面している、と 「倫理と無限」の対話者フィリップ・ネモが発言する。Ethique
et Infini p83 しかし、他者が主なのであり、私は従わねばならず、私は富、他者は貧していることがあらゆる関係の前提なのだ、とレヴィナスは主張する。
Apres vous, Monsieur お先にどうぞ。 そのとき、ひとは戸口の前でこう言うのであり、このように言う関係が人間の一次的なあり方なのである。『Ethique et Infini 』p84
しかし、ひとをどのようにして裁くのか、正義をどのようにあらしめるかと問うことは、自分の語った他者への応答に対する、憎悪の関係の指摘よりもさらに根本的な、反論だと、レヴィナスは言う。法の条件となり、正義の樹立をもたらすものは、多数の人間がいるという事実、他者の傍らいる第三者の存在である。他者との対人の関係を、わたしは別の人間とももたねばならない。他者の特権を抑制する必然性がそこに生ずる。そこに正義や公正が根拠をもつ。制度は免れることのできないものだが、それにより行使される正義は、始原の他者への応答の関係によって制御されなければならない。レヴィナスは他者への応答、他者からの召喚を始原とするが、それを、自己の非始原でかつ非支配的(l'anarchie)な本質としている。
2.戦争と平和
”存在論として作動するような存在との関係は、存在者を中立化して、それを理解すること、あるいは存在者を把握することにある。そのような関係は、したがって他なるものとしての他なるものとの関係ではなく、<他>を<同>に還元することである。自由とは、だからつぎのように定義されるものにほかならない。すなわち、他なるものとのいっさいの関係にもかかわらず、他なるものに対抗してみずからを維持して、<私>の自由を確証することなのである。主題化と概念化は分かちがたいものであるけれども、両者はともに<他者>とのあいだの平和的関係というわけではない。それはむしろ<他なるもの>を抑圧し所有することである。所有も現に<他なるもの>を肯定するのであるが、その自存性をまさに否定することをつうじて<他なるもの>を肯定するにすぎない。「私は考える」は「私はできる」に帰着する。存在するものの領有、実在の搾取に帰着するのである。第一哲学としての存在論は権力の哲学である。存在論は国家と、全体性の非-暴力にはいきつくけれども、非-暴力がむしろその暴力によって育まれ、国家の専制としてあらわれるような暴力に対しては、あらかじめ注意をはらうことがない。真理によって諸人格は和解すべきであるのに、真理はここでは匿名的に存在している。普遍性が非人称的なものとして現前しているわけであり、そこに存在するのはもうひとつの非人間性なのである。”『Totalite
et Infini』p36-37『全体性と無限』熊野純彦訳上巻p68-69
”ハイデガーにおける存在論の優位は、「存在するものを認識するためには、その存在するものがそもそも存在していることを理解していなければならない」という自明の理にもとづくのではない。存在者との関係における存在の優位を肯定することは、哲学の本質についてそれだけで、ある宣言をすることである。それは、一箇の存在者であるだれかとの関係(倫理的関係)を、存在者の存在との関係に従属させることなのである。その存在は非人称的なものであって、存在者を把握し、存在者を(知の関係のもとで)支配することを可能にし、正義を自由に従属させるのである。もしも自由が<他>のただなかで<同>でありつづけるしかたを意味しているとするならば、(非人称的な存在に媒介された、存在者がそこでみずからを与える)知は自由の究極的な意味を含んでいる。自由はその場合、正義と対立することになるであろう。正義は、みずからを与えることを拒否するある存在者に対する義務、つまり<他者>に対する義務を含んでいるからである。<他者>はこの意味で、とりわけて存在者であることになるだろう。ハイデガーの存在論は、存在との関係に存在者とのいっさいの関係を従属させることで、倫理に対する自由の優位を肯定していることになる。たしかにハイデガーにあっては、真理の本質が自由を作動させるのであるから、その自由は選択の自由といった原理ではない。むしろハイデガーの自由は存在への服従から生じる。つまり、人間が自由を保持しているのではなく、自由が人間を保持しているいるのである。けれども、自由と服従をこのように真理の概念によって調停する弁証法は、<同>の優位を前提している。西欧のいっさいの哲学はこの<同>の優位に向かってすすみ、その優位によって西欧の哲学が定義されるのである。”『Totalite
et Infini』p36『全体性と無限』熊野純彦訳上巻p66-68
だから、同じくレヴィナスは、ヘーゲルの自己意識を、自己への同等性のうちで統御される意識にすぎないという。それは、他者と対面することではなく、ものを認識するように、他者の傍らにあることである。この知の内在は存在の孤独を脱出できない。
このレヴィナスの論述をデリダが批判している。Derrida 『L'ecriture et la difference:Ⅳ VIOLENCE
ET METAPHYSIQUE』デリダ『エクリチュールと差異 4暴力と形而上学』の論旨
<暴力と形而上学>抄
*レヴィナスは、空間は常に、すべてを中和する<同>の場所なのだから、真の外在性は空間的なものではないという。そうではなく、絶対的な、無限の外在性、つまり他なるものの外在性があるという。しかし、何故に非空間的関係を意味するために、<外在性>という空間と光りに連なることばを使用するのか?全体性の言語の中で、全体性を超出する無限を語ること、真の外在性を、非‐外在性として、空間のメタファーである内部‐外部によって語ること、このことが意味しているのは、哲学的ロゴス(言語)はまず内部‐外部構造への移住に身を任せなければならないということだ。自分の場所から<場所>の空間的地点への強制収容は、哲学的ロゴス(言語)に先天的に備わっている。空間は生まれ出ることの傷みと有限性としてある、空間なくしては、言葉を拓くことすらできないし、真であれまやかしであれ、外在性を語ってはならない。Ibid
p.165-166
*存在は歴史なのであり、その所産のなかに隠れている、そして根源的に思考の中で暴力となることで、語られ、現れるのである。暴力なき存在は存在者の外で産み出される。それは無、非歴史、非産出、非現象なのだ。ほんのわずかの暴力もともなわずに生まれる表白une
paroleは他者に対し、何も決定せず、何も語らず、何も与えない。それは歴史ではない、せりふune phraseなき表白といったようなものだ。Ibid
p.218
*純粋な暴力も純粋な非暴力も矛盾した概念である。顔のない存在間の関係としての純粋な暴力は、いまだ暴力ではなく、純粋な非暴力だ。逆に、<同>と<他>の非関係である純粋な非暴力は純粋な暴力である。顔だけが暴力をとめることができる。が、それは顔だけが暴力を呼び起こすからだ。Ibid p.218
*非暴力の言語は述語機能を欠いている。述語化は最初の暴力である。動詞etre<~である>と叙述の行為はすべての動詞と名詞に含蓄されている。非暴力の言語は、突きつめれば純粋な祈りであり、祈祷なのだ。遠くから、他者に呼びかけるために固有名詞を高唱するしかない。このような言語はなおその名にあたいするだろうか?あらゆる修辞学から純化された言語はありうるのか?プラトンはわれわれに語っている。:名詞と動詞の絡み合いを前提せずにロゴスは存在しない、と。クラチュロス(425a)、ソフィスト(262ad)、第七書簡(342b) Ibid
p.218
*もし、レヴィナスのいうとおりに、(直観的結合ではなく)言説le discoursだけが正義であり得えるのであり、また他方で、すべての言説が空間と<同>を備えているならば、このことは、言説が根源的に暴力なのだ、ということを意味していないだろうか?唯一平和が宣言される場となる哲学的ロゴス(言語)に戦争が住みついていることを意味していないだろうか?言説と暴力の区別は永遠に到達しがたい地平であるだろう。非暴力は言説の結果le
telosであって、言説の本質ではないのかもしれない。言説は、何らか意味あるものとして、結果の中にその本質をもつのだ、と言われるかもしれない。もちろん、ただ、その将来と結果が非-言説であるという条件においてだ。ある沈黙としての平和。語ることの彼岸。しかし、将来的存在であったとしても、結果はつねに存在の形式をもっていたのだ。言説が開かれるまえには戦争はない、言説が終わることによってのみ戦争は消滅する。平和は、沈黙であって、自己によって自己の外へと呼びかけた言語の奇妙な使命なのである。だが、有限の沈黙はまた暴力の要素であるように、言語は戦争を認知し、実践しながら、絶えず正義のほうへ向かうことしかできない。暴力に対抗する暴力。もし、(精神が照らす)光la
lumiereが暴力の要素であるなら、悪しき暴力、言説に先行し言説を抑圧する暴力を避けるため、別の光をもつ暴力と戦わなければならない。この警戒は、歴史、すなわち有限性を真摯にとらえる哲学によって、より少なき暴力として選ばれた、暴力である。語ることは間違いなく暴力の解体の始めとなるものである。しかし、矛盾するが、語る可能性がないならば、暴力は存在しない。哲学者(人間)はこの光の戦争のなかで発言し書かなければならない。この光の暴力から逃げれば、言説を否認し、より悪しき暴力ふるうことになるのだ。Ibid
p171-173
*歴史はレヴィナスが批判する全体性なのではなく、全体性の外へ様々に脱出することなのだ。歴史は超越の運動そのものであり、全体性の超過であって、それなくしてはどのような全体性も現れない。歴史は終末論や形而上学や語ることによって超越される全体性ではない。歴史は超越そのものなのである。語ることが形而上学的超越の運動であるとしても、語ることは歴史であって、歴史の向う側ではない。歴史の起源を有限で完璧な全体性〔同〕なかに考えることも、また他方、完璧に実体的な無限〔レヴィナス〕のなかにかんがえることもともにむずかしい。Ibid
p173
*フッサールの無限なるものの抑止は、志向性を欲望と形而上学的超越と見做し、そのほんとうの深部達して、現象あるいは存在の彼方の他なるものへ行きつくことを妨げる。レヴィナスによれば、無限なるものの抑止は二つの仕方で生ずるという。
直観の十全性
直観の十全性は全ての距離と他者性を枯渇させ、内面化する。外在性は心(意識)に吸収されてしまう。観照し、十全な観念として、アプリオリに生じ、意味付与よって現れるのは心(意識)だとレヴィナスは指摘する。
だが、フッサールの様々なテキスト、意味付与la Sinngebungへのその言及は、「志向性としての全ての知は、既に無限なるものの観念、とりわけ不十全性を前提している」『全体性と無限』ことを、フッサールが認識していたと明瞭に理解させるものではないのだろうか。フッサールは無限な地平を予感し、それを<対象指向の思考>pensees
visant des objetsとして解釈したのではないか。
コギト
フッサールのコギトは無限の対象へとひらいている、他者なき無限、悪無限へひらいている。フッサールがコギトに、その外に支えをもたない主観性を見るなら、それは無限の観念をみずから構成して、対象としてわがものにしていること意味する。以上、レヴィナスの論旨。
<悪無限>、レヴィナスは決して用いないが、『全体性と無限』における多くの告発につきまとうこのヘーゲルの表現は両者において意味を異にする。ヘーゲルにおいて悪無限は否定によって主体(同)に立ちかえることのない無際限で、無限の否定的形式である。レヴィナスにとっても、同じく無際限ではあるが、真の他性を非-否定性(非-否定的超越)と考え、他者を真無限、同(否定性の共犯者)を悪無限とする。ヘーゲルにはばかげたことに思えただろう。
同が暴力的全体性であるとするなら、それは同が有限の全体性、抽象的全体性であり、それゆえ、いまだ他なるものの他なるものなのだということを意味する。有限の全体なるものは同なのではなく、なお他なるものなのである。もし、有限な全体が同であるなら、その全体は自身の他なるものにならなければ、全体として考えられないし、行動できない。それは戦争だ。そのようにならないというなら、その全体性はレヴィナスの意味での同ではない。西欧哲学の言語において、自己を掌握するその言語そのものである、ヘーゲル哲学を反復せずにいられるだろうか。
ヘーゲルによる包摂を一瞬であってものがれるための、唯一の有効な立場は、悪無限を還元不可能なものとみなすことである。それはフッサールが志向の不完全さ、つまり変質性を還元できないものと示しながら行ったことである。還元不可能な存在者についての意識は自己意識にはなれないだろうし、絶対知の再臨に際して、自己へと結集することもないであろう。しかし、そのようなことを言い、経験の真理として悪無限に気づくのは、既に真無限が予想され、現われ、考えられ、語られているからではないか。哲学とよばれるものはたぶん思考の全体ではない、哲学は虚偽を思考できないし、また真理の先行と優位に敬意を払わずには虚偽を選択できない。(他と同の間とおなじ関係)レヴィナスがフッサールへむけることができるこの問いは、レヴィナスがヘーゲルへ反論するやいなや、レヴィナスはヘーゲルを認めることしかできないし、すでにヘーゲルを確証ずみであることを示すだろう。
地平それ自身は客体ではない、なぜなら、地平は全ての客体一般の客体化できない資源だからである。
地平の概念の重要さとは、なんらかの構成によって対象を作ることができないということであり、客体化の仕事を無限にひらくことである。フッサールのコギトは無限の観念を構成しない。現象学のなかには地平の構成はなく、構成の地平がある。
フッサール的地平の無限性が無限の開放という形式をもち、終わりなく構成(客体化の働き)の否定にさらされているということが、あらゆる全体化対し、また他者が一挙に見えなくなる十全の無限の直接的現前の幻想に対し、その地平をまもっているのではないのか?
<同>への<他>の永久の非還元性、しかし、それは<同>に<他>として現れる<他>の非還元性ではないか?他者としての他者の現象がなければ、(他者への)敬意はありえないだろう。敬意の現象は現象の敬意を前提する。倫理学は現象学を前提する。
現象学の前提が唯一の序列だ。現象学は、世間的(現実的、政治的等)の意味において、決して命令しない。現象学はこの種の命令の中和である。しかし、その命令を他のもののに代替えするために命令を中和するのではない。
倫理学はただ単に、現象学へ解消し、現象学に従うのではなく、そこにその本来の意味と自由と根源性を見出すのである。
理論的なものの二つの意味。①通常の意味、特にレヴィナスの抗議の標的となっているもの。②さらに隠された意味。それによって、現われ一般が、とくに①の意味では非理論的であるものの現われが保持されるもの。
②の意味において、現象学はもちろん観想論theoretismeだ、しかし、すべての思考とすべての言語が、事実的かつ理論的に、観想論theoretismeに結びつく程度mesureにおいて。現象学はこの程度cette
mesureを測るmesureのである。
レヴィナスの指摘:フッサールは他者がもつ無限の変異性を逸し、他者を同に還元する。他者を分身とするのは絶対的他者の中和化である。
その人についてではなく、その人にむかって語る、その他者を主題化できないし、しようとも思わないが、しかし、この不可能性、この命令法自体が、エゴにとっての他者としての他者の現れを基としなければ、(レヴィナスがおこなっているように)主題化できないのではないか。
『他なるエゴは単なる像ではないし、私において像化された対象ではなく、まさに、この世界に対する主体であり、世界を知覚し、そこにおいて私の経験をもつ主体であって、私として私は世界を経験し、世界において他者をえる。』Husserl『Meditations
cartesiennes』 ,trad.Levinasフッサール『デカルト的省察 』レヴィナス訳 私が決してなることができないものとしての、この他者の現われ、この根源的非現象性はエゴの志向的現象として問われている。
(中澤)2021.4.6