正義のありか


長谷川 宏


 さきごろ、ヘーゲルの『法哲学講義』を訳しおえ、作品社から出してもらった。

 題名をどうでしようかとあれこれ考えたすえに、結局、旧来の例にならって「法哲学」なる語を採用したが、決めたあとで心が落ちつかない。やっぱり「正義の哲学」もしくは「社会正義の哲学」を採るべきだったか、という思いが消えない。その題名にすると、ヘーゲルにそんな本があるのか、と不審に思われそうで、あきらめざるおえなかったのだが。

 「法哲学」の「法」はドイツ語では”Recht”で、これは英語の”right”に通う。「正しい」「それでよろしい」という事態をさすことばだ。「法」だって「正しさ」や「よろしさ」の基準を提供するものだから、「法哲学」とするのはむろん誤訳ではない。が、意味がせまい。「正しさ」や「よろしさ」は「法」の専売品ではなく、習慣や社会常識や道徳や宗教なども「正しい」生きかたや「よろしい」おこないと大いに関係をもつのだから。そして、当のヘーゲルが「正しさ」や「よろしさ」をそうした広い視野のもとで問題にしているのだ。
 
 で、本文中で”Recht”の語に出会うと、「正義(法)」という訳語を当てることが多かったが、そう訳しつつ、現代にあって「正義」なるものがなんと見さだめがたく、見きわめがたくなっているのか、と、あらためて思った。

 たとえば、オウム真理教をめぐる問題について。市民生活の場での無差別の殺人計画とその実行が正義に反するのは異論の余地がないが、といって、同教団のそれ以外の宗教活動も不正義といえるのか。また、信者の住民登録を拒否する市役所の対応や、信者の子弟の就学を拒否する公立学校の対応は正義といえるのか。

 あるいは、未成年者の犯罪を、刑罰の加重によって防ごうとする方策は正義なのか、不正義なのか。

 問われて、うーんと考えざるをえないのが現代人のつねで、考えこむなかで見えてくるのは、正義・不正義を明確に識別しうる座標軸の不在である。そして、ひとたびその不在に気づくと、マスコミで事柄の正解不正解や善悪が自明のことのように語られるのは、不在の事実を打ち消そうとするあせりといらだちの表現ではないかと思えてくる。が、あせりやいらだちから思想や哲学はうまれない。

 さて、座標軸の不在を現下の事実として認めるとして、では、座標軸が確実に存在したといえるような時代が過去にはたしてあったのか。

 あった、といえる有力な証拠の一つが、こんど訳した『法哲学講義』である。ヘーゲルは人間の世界に正義は存在するのか、とみずから問い、正義が法として、道徳として、家族の倫理、市民社会の倫理、国家の倫理として存在するさまを総合的にあきらかにしていく。論述がときに行きなずみ、また飛躍し、まれに前後相矛盾することもなくはないが、できあがった堂々たる正議論の体系は、ヘーゲルの生きる西洋近代に正と不正、善と悪とを識別する座標軸がたしかに存在していたことを告げている。「正義」ということば自体わたしたちはなにほどかの気恥ずかしさをともなわずには使えないが、なんのけれん味もなく「正義とはなにか」を問い、正面切ってその実相をあきらかにできるのがヘーゲルの時代だったのだ。
 
 そういう時代は西洋にとっても過去のものとなった。ポストモダンの思想家たちによる痛烈なヘーゲル批判が、なによりの証拠だ。

 ヘーゲルの正義論をそのままわたしたちの社会にもちこむわけにはもういかない。が、座標軸の不在が社会にとってなにを意味するのか。それをあきらかにする上で、ヘーゲルの正議論は避けて通れない。『法哲学講義』は、正義のありかをめぐってわたしたちに突きつけられた挑戦状のごとくに思えるのだ。