ヘーゲルを読む会



「ヘーゲルをいっしょに読んでみませんか」

 わたしたちは、来るものは拒まず、去るものは追わずで、とくに閉鎖的な集まりではなかったと思います。しかし、どこかに入り口を設けておかないと結果として閉鎖的な集まりになる可能性があるため、インターネットでの会の紹介と会員の募集をはじめました。ただ、ドイツ語で読むことが障害になるのか、応募された方は少ないのが現状です。そこで、以下の点を強調させてください。ドイツ語にまったく初心者の方が当初オブザーバーとして参加されるのを歓迎します。また、会の様子を見てみたい方も歓迎します。ご連絡お待ちしています。

*現在の募集状況については、参加申し込みのページをご覧ください。

 哲学書を原書で読んでみたいと思いませんか。ひとりで読もうとすると自分の読み方はなかなか客観視できません。とくに、ヘーゲルの特異な文体の場合、適切なアドバイスのもとほかの人たちと一緒に読むのが上達のコツだと思われます。長谷川氏や会員と共に読んでいけば、まったく初めての方でも、遠からず、ドイツ語の哲学書が読めるようになります。

 哲学者ヘーゲルのドイツ語原書を読むことにどれほどの意味があるのかについて、少し述べさせていただきます。

 森を見て木を見ない者、奇怪で無味乾燥な論理を捏ねる者、西欧中心主義者、逆立ちした観念論者、外部のない神学的自己完結哲学・・・哲学に興味はあってもヘーゲルを批判するひとは沢山います。それは反面ヘーゲルが無視してすますことの出来ない思想家だからです。上記の批判はヘーゲル自身の時代的制約も加味して、ヘーゲルの思想の本質となっている面もなくはないのですが、多くは主義主張で偏ったり、多大の影響があったマルクス主義の視点で見たり、あるいは<過っての翻訳>がヘーゲルの本来の姿を示せなかったための偏見なのです。現代の思想家の多くが多かれすくなかれヘーゲルの影響を受けていますし、現在の思想的課題である歴史・国家・人権・自由・知の意味・ポストモダン・エコロジー等々をヘーゲル抜きで考えれば大きな空白を生じます。極言すれば、ヘーゲルはわれわれの哲学的問題が集約する哲学者なのです。

 どんな名訳も翻訳であるかぎりひとつの解釈です。つきつめたければ本人の言葉に向かわなければなりません。そこに要素である単語が原石としてあります。解釈はこの原石を磨いた結果であって、翻訳だけでつきつめれば雲のようなもので、本人の文化の原石にはゆきあたりません。<過っての翻訳>はドイツ語原文を読み取る参考書としては役立ちましたが、翻訳だけを読み進むと自分のわるい頭が全体茫漠としてきて、何度読み返しても理解できず、苛立ちはつのるものの読書のよろこびはありませんでした。ヘーゲルのドイツ語も脳捻転をおこしそうな代物ですが、これは石を磨けばきらめくものです。

 いわずもがなでしょうけれど、他言語とつきあうもうひとつの利点は、読むにしろ、話す(この場合は他言語を母語とする人とつきあうということでしょうが)にしろ、日本人である自分と日本語を客観視する視点を持てることです。われわれはもちろん日本語(のみ)で考えます。しかし、母語が他の母語と同じく多数の言語の中のひとつの言語であることを自覚し、他の響きと構造と分節をもつ言葉があることを知るのは詩的意味でも、論理的意味でも、文化においても、ものごとの判断においても、物事の理解に際し価値あることです。

 哲学は迂遠な空理空論として、「生活欲に襲われた不幸な国民から見れば、一の空談にすぎない」(漱石:それから)と敬遠されます。しかし、現代はどんな人でも自己についての考えが問われる時代になったのではないでしょうか。以前テレビで、マタギが自分たちは自然食を食べているといっていました。テレビにはマサイ族が出演したりします。かれらは、もう本来のマタギでも、マサイでもありません。自然食として自然を対象化(判断)したり、自身がマサイ族として情報(知)の対象になっています。もはや自然的意識のままでの人間は存在し得なくなっています。イメージにふりまわされる大衆や粗暴な大衆はいても素朴な大衆はいません。素朴なロメオとジュリエットもいません。伝統に守られた国土の郷愁はますますなくなりつつあります。自然のままであることがひとつの考え方の判断に基づいているのです。現在の世界において、経済的に取り残されている国家・地域を除けば、素朴な無知、自然的意識の純粋性はありません。人類自体が自然的意識の段階を超えようとしています。*哲学はもはや天空の星ばかりを見つめて井戸におちた哲学者のものではなく、自己や知(知識ではなく思考)についての自覚が一個人の生活の場で求められるのです。


ἔθει ἄνευ φιλοσοφίας άρετῆς μετειληφότα
ΠΛΑΤΩΝΟΣ ΠΟΛΙΤΕΙΛΣ Ι 619c7

「習慣によって、哲学なしに、徳を身につけた者」ではないこと。
プラトン 国家 第10巻 619c7

(中澤)