「原稿をただひたすらに追求する文献学研究の視野には古典というものは決して入ってこない。書かれたその時点で、そのままが古典になる文学作品は存在しないからである。かりに原稿発見、原本確立という目的を達しても、古典の姿はどこにもない。古典はいかなるのものか、作品はいかにして古典になるのか、なぜ原稿のままでは古典になりえないのか。こういう問題にはいっさいお構いなしに学術研究をすすめられるのだからおもしろい。文献学としてはつまらぬ作品を対象にしてはたまらないから、すでに古典として認められている作品をとりあげるのである。はじめに古典ありき、である。」(古典論p122)

 「原形、原稿、原テクストが失われるのは、それに受容の批判、加工、破壊の作用が及び、新しい、よりすぐれたと考えられた異本に代替させる過程において、必然的に消滅するのである。たまたま姿を消すのではない。後続の異本のネガティブな作用に抗し、それをはねのけて生きつづける原テクストは考えることができない。あらゆる表現は、受容されることによって必然的に異本を生ずる。もし異本のできないものがあれば、それはすでに表現ではないといってよいであろう。」(p135)

 「口承の時代・・・読者に当たるものが、随時、製作に加わり、あるいは、作品の改変、改訂を行いえたと想像される。」(p107)

 

 「印刷文化の時代に入って、・・・もとの異本、原形にちかいテクストが残存する確率は高くなる。・・・これが異本の原理をおおいかくし、歴史的実証がテクスト研究の絶対的方法であるかのような状況をつくり出した。」(p129)