ヘーゲルを読む会

絶対知J&L-673-1

02/04/25 02/05/09 02/05/23

02/04/25

出席者:長谷川、池内、大澤、竹永、加々見、中澤、鈴木、新浪
p.575−580 von  Anfang  bis<,denn er ist das fürsichseiende Selbst.>
p534〜539 始まり〜「、そこでは対象と自己とが同じものとしてむきあっているのである。」長谷川訳

(内容要約)
  対象は第一に感覚的確信に呼応する直接的存在、つまり物一般であり、第二に対象の関係、対他存在と自立存在として知覚に呼応し、第三に、本質であり、一般的なものであって分析知の働きに呼応する。対象はそれゆえ、全体として、一般的なものが規定されることで個別性となる、あるいは逆に個別性が破棄されることで一般的なものとなる三項関係の運動である。J&L-675-1意識の章のこの三つの規定に従って、意識は対象を自己自身として知らねばならない。ただ、本来の概念の契機はまだ対象意識の諸形態のかたちである。

 無関心な存在としての物の中に、観察理性が自己を発見するのをわれわれは見た。自我の存在は物であるJ&L-676-1という無限判断が観察理性の到達したところのものである。この判断は直接的には無精神なのだが、不可視のものを物としているのであり、概念に従えば、精神に満ちているのである。HY-6物が自我であることにおいて、物はそれ自身として成り立つのではなく、自我と自我の物への関係により成立する。この契機が啓蒙において明らかとなったのである。物はその有用性で考察される。J&L-676-3物は本質的に他のための存在HY-7なのである。物の知を存在の直接性でなく、内的なものとして知るのは道徳的自己意識J&L-677-2HY-8である。この意識(良心)はその知を絶対存在として知ること、あるいは存在を純粋意志である知として知ることである。良心は現実存在がそれ自身の純粋な確信であることを知るのであり、行動によって良心が身をさらす具体的な場は自己の純粋知HY-11なのである。これらの契機から精神はその本来の意識と統合されて、和解する。これらの契機の精神的統一が和解の力となるのである。最後の契機(良心)がこの統一自身であり、すべての契機を内的に結びつける。HY-12

 自らを自身の存在の中に確信する精神は存在の場として自己のこの知以外をもたない。その行うことを義務の確信に基づき行うのだという発言、精神のこの言葉がその行為の正当さということである。現実は直接的存在としては自己意識にとって純粋知以外のものではなく、特定のあり方あるいは関係としては、自己に対するものは、一方ではこの純粋な個別的自己の知であり、他方では普遍的知の知である。この対立する二つの知それぞれにとって普遍性はただ知であると見なされる。この二つの知はいまだのこる空虚な対立を破棄するのであり、自我=自我という知なのである。つまり、直接的に純粋知であり、かつ普遍なものであるこの個別の自己なのである。J&L-678-7HY-14

 意識の自己意識とのこの和解は二重の側面で実現される。つまり、一方では、宗教的精神において、他方では、意識そのもの自身において。J&L-678-8前者は潜在的和解であり、後者は自覚的和解であるという違いである。J&L-679-1このふたつの側面の一致が一連の精神形態を締めくくるのである。その時、精神は、潜在的に絶対的内容J&L-679-3HY-15にもとづくだけではなく、自覚的であるが内容のない形式である自己意識J&L-679-4HY-16だけにもとづくだけでもなく、絶対的な(an und für sich)ものなのである。

 絶対的内容ならびに自己意識の精神の宗教的(潜在的)現れは示されたのであるがJ&L-679-5、欠けている一致は概念の単純な単一性である。J&L-680-1この概念は自己意識の側面ではすでに現れており、概念にとどまり続けるJ&L-680-2自己確信の精神形態、美しい魂と呼ばれたものである。この美しい魂は純粋な自己内存在の知を精神として知る自己意識であり、神的なものの直観HY-19であるだけでなく、神的なものの自己直観である。J&L-680-3この概念は現実化に対立したままであれば、一面的形態として虚空に消えるが、この形態の積極的外化とそれに続く運動をわれわれは見た。この現実化により、この無対象な自己意識の自己硬直、自らの実現に対立する概念の確定性はうちこわされる。自己意識は普遍性の形式を得、自己意識に残るのは、真の概念、実現を獲得した概念である。この概念は義務という抽象的本質の純粋知の知ではなく、この知、この純粋な自己意識である本質としての純粋知の知なのである。この純粋な自己意識はまた同時に真の対象である。何故ならこの対象は自立した自己だからである。J&L-681-1HY-20

(会の要旨)

<長>この部分はかけあしのまとめで、まえおき。ねじれた議論になっている。

 Entäußerung(放棄・譲渡・外化) ―― マルクスでは疎外(Entfremdungと区別せず)。自己を対象に投げかけること。精神現象学の用語で、für sichの行為、自己が成長する過程で使用。

 p576 Er ist ,als Ganz, der Schluß oder die Bewegung des Allgemeinen ・・・der Schluß は三つのものの関係。

 「自我の存在はものである」長谷川訳p536 現在で言えばさしずめDNAか。

   p578:18-579:11(537:9-538:1長谷川訳)Verzeihung(ゆるし)-Wissen(知)-Ich=Ich(自我=自我)ここでは宗教をはぶいて良心から絶対知への道を論じている。西洋の良心は全体を俯瞰(ふかん)して、よく知り、確信すること。日本での良心のイメージは?

<?>心のやましくないこと。心のやさしい人のイメージある。

<長>p579 Bewusstsein・・・teils zu den einzelnen Momenten derselben ,teils zu ihrer Vereinigung längst gekommen ,ehe auch die Religion ihrem Gegenstande

 die Gestalt des wirklichen Selbstbewusstseins gab.(意識は・・・、個々の要素に行きついたり、意識の統一へ行きついたりするが、それは、宗教がその対象に現実の自己意識の形態をあたえるはるか以前のことである。p538長谷川訳)zu ihrer Vereinigung längst gekommen(はるか以前に意識の統一へ行きつく)とは何を指すのかはっきりしない。

 ヘーゲルはおさらいして、絶対知の統一一歩手前で行きつ戻りつしている。

02/05/09

出席者:長谷川、池内、大澤、竹永、加々見、中澤、鈴木、新浪

p.580−586 von <Seine Erfllung gab sich dieser Begriff・・・>  bis<;aber diese ist allein sein wahres Wissen von ihm selbst.>

p539〜544 「概念が充実していく過程は・・・」〜「・・・、精神が真に精神を知るといった事態は、学問においてしかなりたたない。」長谷川訳

(内容要約)

 自覚的な自己である本質についての純粋知の知、この概念の実現は、一方では自らを自覚した行動の精神にあり、他方では宗教にある。この概念は宗教においては絶対的内容を内容として、意識にとっての他在の形式であるイメージで獲得した。それに対し、行動の精神においては形式は自己自身であり、自己が絶対精神の生命を実行する。J&L-681-2この形態は永遠の存在を放棄して、目の前にある行動するあの単純な概念である。

 概念はその純粋性により分裂し、出現する。何故なら、概念の純粋性は絶対的抽象であり、否定態であるからである。同じく、概念は純粋知そのものによって、その内に存在と現実の場を持つ。何故なら、純粋知は本質であると同時に現実存在の単純な直接性だからである。この現実存在は最終的に、現実存在としても、義務としても、自己へと反照している存在、あるいは悪の存在である。HY-21この自己へ向かうことが概念の対立となり、それにより本質の純粋知が非行動、非現実なものとして現われる。

 本質の純粋知は潜在的にその単一性を放棄し終わっている、何故ならその純粋知は分裂することであり、概念の否定性だからである。この分裂が自覚されると純粋知は悪となり、潜在なものであれば善にとどまる。J&L-682-1

 既に、潜在的に(宗教において)定立されていた概念の否定性がこの否定性についての意識として、と同時に意識の行動として繰り返される。この意識の知と意識の行動はそれぞれ他に対してその自立性を中止する。この中止は潜在的始まりであった一面的概念の断念と同じものである。しかし、それはいまや意識の断念であり、意識が断念する概念は意識の概念である。―――はじめのあの潜在自体的なものは否定態として本来は媒介されたものである。HY-22否定的なものは他に対する規定性として、もしくは自体的に自己を破棄するものである。対立項の一方はJ&L-682-2普遍性対内的個別存在の不同であり、他方はJ&L-682-3自己対抽象普遍の不同である。前者は自立存在を離れ死し、断念し、帰属する所を表明する。LE-516-2後者は頑なな抽象普遍を放棄し、非生命的な自己と不動の普遍を離れ死す。前者は本質の普遍により、後者は自己の普遍によりそれぞれ補完されたのである。HY-23

 精神のこの最後の形態、完全で真の内容に同時に自己の形式を与え、これよってその概念を現実化し、同じくこの現実化においてその概念にとどまる精神は絶対知である。精神の形態のうちに自己を知る精神、概念把握する知である。J&L-683-1真理は潜在的に完全に確信にひとしいだけでなく、精神自身の確信の形態をとる、もしくは真理は真理の現実存在の中にある、即ち知で捉える精神にとってその知のかたちの中にあるのである。HY-27真理は宗教においては精神の確信にいまだひとしくない内容である。内容が自己の形態を得たことでひとしくなったのである。これによって、本質自身であるものが、現実存在の場、あるいは意識にとって対象性をもつかたちになったのだ。すなわち、概念である。この場において意識に現象する精神、もしくは、ここでは同じことだが、この場において意識により生み出される精神は学である。J&L-683-3

 時間は概念であるが、この概念は目の前にあるものであり、空虚な直観として意識が表象するものである。それゆえ、精神は必然的に時間において現れる。精神がその純粋概念を把握しない限り、すなわち時間を抹消しないnicht tilgt限りJ&L-686-2、精神は時間の中にある。時間は直観による外的な、自己により把握されていない純粋自己HY-32、ただ直観されただけの概念である。概念が自己自身を把握することで、概念はその時間形式を破棄し(拾い上げ)aufheben、概念把握されかつ概念把握する直観となる。―時間はそれゆえ運命として、自己のうちに完結していない精神の必然性としてあらわれる、――この必然性とは、意識における自己意識の関わりをゆたかにすることであり、直接自体的なものと意識された実体を運動させること、あるいは逆に内的なものとして捉えられた実体を実現し、顕示すること、すなわち意識自身の確信へ返還請求することである。

 精神は自体的に、認識であるところの運動である。――あの潜在から自覚への、実体から主体へのJ&L-687-1、意識の対象から自己意識の対象への、同様に止揚された対象、もしくは概念への転換である。この運動は自己にかえる円環であり、その始まりを前提し、終わりにおいてのみこの始まりに到達する。J&L-687-2精神は潜在的に、世界精神として完成されない前に、自己意識の精神としてその完成に達することはない。

(会の要旨)

<長>良心(この世)←知(wissen)は両方にまたがる→神(wesen)・宗教

 p581 Dies Dasein ist endlich ebensosehr das aus ihm ―wie als Dasein so als Pflicht―in sich Reflektiert oder

Bösesein.(p539ここにいう存在が、最終的には、純粋知から、存在ないし義務として、自分のうちへと還っていく悪なる存在につながっていく。長谷川訳)この箇所はアダムとイブの失楽園をふまえているのでは?聖書の的確な読みかは問題。

 p581 sofern dies Entzweien das Fürsichwerden ist,ist es das Boese;sofern es das Ansich ist,ist es das Gutbleibende.(p540この分裂が自分にむきあうようになったとき、そこに悪がうまれるし、それが潜在的な状態にとどまるかぎりで、善が保たれる。長谷川訳)das Gutbleibende(善がたもたれる)はLogikに相当。Dasein,Sein(存在)はNaturに相当。

 p582:21−p583:1(p541:1−8)序文で言われていること。概念が強調されている。

 自我Ichが世界にとけこむかのように、学問を自我で説明している。フィヒテの影響で「精神現象学」独特の言い方。ヘーゲルがわれとわれわれを媒介させるのは、他の著作では言語。自我は他と区別されるとき自覚されので、絶対知のように他と透明になることろで自我Ichが使用されているのは興味がある。自我Ichは後期には登場しない。

 学問Wissenschaftが登場するのはいつだろうか?

<新>ナポレオンの登場のあと。統一国家出現のあと。

<中>「精神現象学」によって。

<長>学問と宗教が対比されるが、宗教の上に学問がおかれる。

02/05/23

出席者:長谷川、池内、大澤、竹永、加々見、中澤、鈴木、新浪

p.586−591 von <Die Bewegung ,die Form seines Wissens von sich hervorzutreiben,・・・>  bis End

p544〜549 「精神の知の形を推し進める運動は、・・・」〜シラー詩『友情』LE-524-4長谷川訳

(内容要約)

 現実存在が直接に思考である自己的形式において内容は概念である。HY-52精神はかく概念を獲得し、その生命の精気のなかに現実存在HY-53と運動を展開し学となる。J&L-691-4学においては、もはや特定の意識形態として概念の運動が示されるのではない。意識の区別は自己へと還っているのだから、概念の運動は自己を根拠とした特定の諸概念の有機的運動として示される。「精神現象学」では知と真理の差異と両者の差異の破棄が各契機なのであるが、それに対し、学においては契機が概念形式を獲得しているゆえ、真理の対象形式と自己知の対象形式は同一である。意識における現れから開放された純粋概念とその運動は概念の純粋規定のみに依拠する。HY-54逆に、学のそれぞれの抽象的契機に現象する精神形態が対応する。J&L-692-2学の純粋形態を意識形態のかたちの中に認識することが学の現実面となる。この現実面に基づけば学の本質である概念は概念の単一な媒介による契機を砕き、内的対立に従って表現される。

 学はそれ自身の内に純粋概念を外化(放棄・譲渡)する必然性と意識への移行を含む。自己自身を知る精神は精神概念の把握により直接に自己自身と同一なのである。この同一は差異の面で見れば直接的なるものの確信であり、感性的意識である。――つまり、それはわれわれの出発した発端である。精神のその自己的形式からの開放は自己についての精神の知の最高の自由であり、最高の安定である。J&L-692-3

 だが、この外化はまだ不完全なのである。この外化は対象への精神自身の確信の関係を表しているが、この対象は関係においてあるゆえ、まだ完全な自由を獲得していない。知とは自身を認知するだけでなく、知自身の否定、知の限界をも認知することなのである。限界を知るとは自己を犠牲にすることを知ることである。この犠牲は精神が精神への生成を限定されない偶然的な出来事というかたちで表現する外化である。精神はそのようにして、その純粋自己を精神の外部に時間として、その存在を空間として直観するのである。J&L-693-1精神のこの後者の生成、自然は、精神が無媒介に生命をもって生成したものである。自然、この外在化した精神はその現実存在において永遠に外化して存続し、主体を確立する運動である。HY-56

 精神の生成のもう一つの側面は、歴史、知的な媒介による生成――時間において外化した精神である。この外化は外化自身の外化である。否定的なものは否定的なもの自身の否定的なものなのである。HY-57この生成は絵画の回廊として諸精神の運動と連続を提示する。

 精神の完成は精神がその実体を完全に知ることである。この知ることとは精神がその現実存在を去り、その形態を記憶にJ&L-694-1ゆだねて、自己の内へ向かうことである。自己の内に向かうことで、精神は自己意識の暗夜に沈み込む。精神の現実存在は消滅し暗夜の中に保存されている。こうして保管された現実存在、つまり、以前のものではあるが知から新たに生まれた現実存在は、新しい世界であり、新たな精神の形態である。精神はこの形態で無心に第一歩から始まらねばならず、この形態から再び自身を育てなければならない。記憶は過去の諸精神を保存しており、実際にはより高次な実体形式なのである。精神が外見上自己のみを出発点として最初からその形成を再び開始するとしても、この精神が始まるのはより高次の段階である。J&L-694-3

 諸精神の連続である歴史の目標は精神の深さが啓示されることである。この深さとは絶対概念であり、それ故、啓示は絶対概念の深さを破棄し、絶対概念を水平にひろげることである。啓示はまた自己内在する自我の否定性であるが、この否定性は概念の外化であり、あるいは概念の実体である。――さらに啓示は概念の時間であり、外化が外化自身において外化し、外化の拡がりのうちにあることであると同じく外化の深さのうち、自己のうちにあることである。

 諸精神の保存は限定されない偶然的現われの側面では歴史であり、概念把握された組織化の側面では現象する知の学J&L-695-1である。あわせれば概念化された歴史J&L-695-2であるこの両者は、絶対精神の記憶とゴルゴダの丘J&L-695-3LE-524-4であり、玉座にある精神の現実、真理、確信なのである。この玉座を欠けば精神は生命を失い、孤立してしまうであろう。

(会の要旨)

<長>p586:16 Intellektualwelt(p544空想の世界:長谷川訳)叡智的世界―この用語はカントへの揶揄。

 ヘーゲルは形而上学だけでなく、現実感覚があり、歴史意識をもっている。同時代のシェリングは形而上学へながれるが、ドイツ観念論としては、ヘーゲルよりこちらの思想傾向の方が本流か。

 時間を運動態、否定性としている。簡略な表現なので細かいとこまで詰めるのはむずかしい。

 「それは、円環を描いて自分へと還っていく運動であり、はじまりで前提とされたものに最終段階でようやく到達する。」長谷川訳p543これは例えば、演劇において、最初の演技のどきどきを忘れないことに通じる。このふるえは演技の本質で、魅力、こわさ。これを忘れると、つまらぬ演技になるのでは(たんなる物知り。上手な人)。哲学の問いは出発点についての問いであり、ヘーゲルでは、これは体系構成になっている。ヘーゲルは論理を体系として円環させたいと考えている。偶然の出発にみえる感覚的確信は直接的確信ということで、自己を知る精神と同一。

 空間――自然、時間――歴史(つまり精神、精神を繰り返すので歴史ととったのでは)

 事実の歴史+「現象する知の学問」(精神現象学?)=概念化された歴史(精神哲学)・・・体系の中に現象学を生かそうとする意図があった。

 ゴルゴダの丘・・・哲学的真理をキリスト教のことばで語っている。十字架に架けられなければイエスは一個人。死んで、昇天し、神の玉座につく。

該当箇所に関するコマンテール(とくに表示のない限りページ数、番号は原著のもの)
:特に表記のないものは長谷川訳ではありません
PHNOMNOLOGIE DE L'ESPRIT T.U.  Traduction de JEAN HYPPOLITE  略字 HY−**
PHNOMNOLOGIE DE L'ESPRIT  Traduction par Gwendoline Jarczyk et Pierre-Jean Labarrire  略字 J&L−**−*
PHNOMNOLOGIE DE L'ESPRIT  Traduction de Jean-Pierre Lefebvre  略字 LE−**−*

HY-6 唯物論の弁証法的解釈がここにあると言える。(参)「精神現象学」の骨相学。自我が存在、無活性な物として現れる。精神の完全な外化を意味するこの唯物論は実際には、不可分な自立存在による、思考と存在の最初の一致を意味している。

HY-7知覚に与えられた関連がいまや精神自身により精神の展開過程の中におかれる。この展開は、感覚の世界におけるこの世界の相対性、自立存在から対他存在への移行として認知される。すなわち有用性の世界。

HY-8つまりカント哲学において。物自体、内的なものあるいは本質は道徳的自己である。カントのこの解釈によれば、認識の相対性は存在自身が純粋意志であることに起因するだろう。

HY-11 いわゆる道徳-意識(良心)の中で、内なるものと外なるもの、客観的自己と主観的自己、潜在するものと現象の(悟性の章のなかでもまた求められていた)同一性がついに実現される。

HY-12 われわれは意識が客観性の三つの契機と同一化するのを見た。しかし、和解の力はこれら契機全体の中にのみにある。この全体はまたある特殊な形態、道徳-意識(良心)の中に現在する。

HY-14 ヘーゲルは全体である形態がまた客観性の三つの特殊な契機を含んでいることをここで示している。具体的行動における直接知、普遍(認識の場)と特殊(具体的行動の場)の対立における関係、そして自我=自我の具体的同一性に達する自我の知における本質である。しかし、見てきたように、この運動は宗教に至る。ところで宗教は内容以外のものではない、つまり和解をイメージでとらえること以外のものではない。それゆえ、さらに宗教を現実的行動自身と、すなわち潜在的なものを自覚的なものと和解させなければならない。

HY-15宗教の領域における和解に相当するもの。

HY-16 世俗という言葉を用いることが出来るならば、世俗の行動形態に相当するもの。

HY-19 宗教の場合のように。

HY-20このように美しい魂は概念であり、神の自己意識であるが、なおその現実化には対立している。しかし、美しい魂の外化、具体的行為へのその移行は概念の現実化、つまり他なるものであることにおいてそれ自身に同一である概念である。そこにあるのは絶対知の形式だが、それを宗教はなおいくつかのの点で外的である光景として現実の自己へ提示していたにすぎなかったのである。この文章と宗教の章の前置きにおいて、ヘーゲルの企ての困難さ全体が感じられる。現実世界ならびに人間の行為の宗教とのこの和解は、見てとることになるように、時間の存在自体とぶつかる。本質的なことはわれわれには次の言い方に含まれているように思われる。《自己が絶対精神の生命を実行する。》―興味をもたせるのは、ヘーゲルがここでヘーゲル哲学に対してしばしば行われるであろう反論に気づいているのが見られることだ。つまり、時(時間)の終わりと合致する哲学だという反論である。すくなくとも「精神現象学」においては、絶対知は知と行為の和解であると主張している。この章の終わりの二段落において、精神の時間性の問題が持つ重要性を見ることになるであろう。

HY-21純粋概念の特性である分裂は潜在的なものにおいて現れ、さらに意識とその行動そのものにおいて現れる。純粋本質は純粋である限り抽象であって、それ故否定態であり分裂が本質に生ずる。分裂は一連の行動中、意識において繰り返される。この一連の行動において、そのように、精神は普遍と特殊として自己から分離する。しかし、潜在的に分裂はまた弁証法的統合なのである。罪びとの告白と罪の赦しとして生ずる意識の運動の場合と同じである。

HY-22言い換えれば、潜在的なものにおいては分裂と統合は意識的概念を前提している。分裂と統合が実際にもたらされるのは意識の行動においてのみである。かくて、純粋論理学では存在は概念を前提し、概念は存在をもたらす。

HY-23故に意識的に実現されるのは自己と本質の弁証法的統一である。本質は普遍的自己となり、自己は本質へと高まる。実体は自覚的には主体である。宗教においてもこの移行は実行されたのであるが、それはまだ自己意識の行動からは区別されていた。

HY-27 真理(客観なもの)と確信(主観的なもの)の対立が「精神現象学」の特色であるが、この対立は学においては消滅する。(例えば、契機が純粋規定おいて提示される「論理学」では、否定的なものはこの規定性そのものであり、有限な意識への関係ではない。)意識形態という着想は「精神現象学」のものである。それゆえ、絶対知はなお意識形態であると言うのはむずかしい。絶対知はあらゆる特殊形態を超越する。絶対知において真理は概念としておかれる、すなわち自己自身の確信の形式の中で。ヘーゲルの学はつまり自己の自発概念であり、精神が自己自身により自己自身について持つ知である。この展開全体は「精神現象学」序文の展開に比せられるだろう。

HY-32 自己にとって外的な自己、自己自身について忘我状態の自己。時間を抹消するであろうものは全直観の完全な概念である。しかし、この章の最後の段落は学をもとにした空間(自然)と時間(歴史)への精神の必然的外化を指摘している。

HY-52 純粋論理学への導入。内容は自己であり、この自己は外化したもの、あるいは自己自身から成る知の直接的な単一さであるが、正確には直接的な単一さのようなものである。内容における自己のこの現存が内容の必然性と運動をもたらす。各々の差異は確定されたものであり、差異の動揺は全体への復帰の運動である。

HY-53 現実存在はここでは限定された存在、内容の差異である。

HY-54 「精神現象学」では意識と自己意識が絶えず互いに評価される。この差異は「精神現象学」の特徴そのものである。「論理学」においては契機はもはや意識の契機ではなく、自己意識的内容全体の契機である。各契機は存在、非存在、質、量等の純粋規定性により特徴づけられ、この規定性のそれ自体における運動が考察される。―逆に、この純粋規定は現象知における意識形態としても現れる。論理的展開と現象学的展開は照応する。

HY-56 自然―外化した精神―はそれはそれで主体を再建するため外化する。

HY-57 自然は歴史なく、精神への生成としてその永遠の外化を展開するに過ぎない一方、歴史は反対に精神を再確立する真の運動である。精神は時のうちに失われ、歴史は精神が自らを見出し、取り戻す運動である。『精神は自らを見出すもの、それゆえ失われてしまったものである』とヘーゲルは言った。とにかく、精神が無限であるように、歴史もまた終わりがない、このようなことが少なくとも「精神現象学」の結論であるように思える。

J&L-673-1 現象学の《最後の形態》絶対知は《その完全で真の内容に同時に自己の形式を与え、これよってその概念を現実化し、同じくこの現実化においてその概念にとどまる精神》である。認識というより存在論の射程から、上記の言葉の基になっているのは、精神の章(形式)と宗教の章(内容)の結末において生じた意識と自己意識の間の二つの《和解》を、起源も終わりもない運動により、構成的に《統一する》行為である。―《絶対》という形容詞は、《絶対理念》(「論理学」の終わり)ならびに《絶対精神》(「エンチクロペディー」の終わり)におけると同じく、この《知》のその本来の実現への本質的開始を刻印しているのである。この考えから、この本の最終ページは知を偶然的なものの理解と同一化するであろう。

J&L-675-1この段落の終わりがはっきり述べるように、求められている統一は論理的秩序のものである。現象学の基準では、統一は、三つの契機の例証とみなされる諸形態をまとめることによってのみ到達されうる。この三つの契機において概念全体が展開する。なぜなら、対象は、その真理に基づけば、意識において現れる精神でもあるような構造をもつからである。宗教の章の導入部がそのことを以下のように言明している。《かくて、精神はその普遍性から規定により個別性へ降る。規定あるいは中間項は意識、自己意識等である。個別性については、それを構成するのはこれら契機の諸形態である。》Werke3.499:8長谷川訳462:3

J&L-676-1《・・・精神に関し、精神があるとはっきり言われる事についての真の表現が見出されたのは非常に重要なことと見なさなければならない。普段、精神について、精神がある、精神が存在をもつ、物、個別の現実である、と言われるとき、見たり、手にとったり、突付いたり等できる何らかのものが念頭にあるのではない、しかし、このようなことは言われるのである。本当の意味で言われていることは、これゆえ以下のように表現される、精神の存在は骨である、と。》Werke3.260:1長谷川訳232:13

J&L-676-3 物の物質的個別性はそのとき互いの本質的関係において認識される差異の位置で決定される。直接的なものが自己に同一であるのはその具体性の条件であるこの形態の区分においてそれが言われるときのみであろう。

J&L-677-2 鍵となる第三の形態、道徳性。―この段落はこの形態の三つの発展段階を思い起こさせることになる。絶対的本質についての、空虚で形式的な、純粋意識・道徳意識が普遍も特殊も断念しないことを許すづらかし、言い抜け・最後に道徳的確信(良心)が《その直接存在を純粋知であり行為であるものとして、かつ真の現実的調和として知る。》Werke3.465:10長谷川訳429:3

J&L-678-7 二つの意識が取り交わす個別の<自己>は、この様なものとして普遍的射程をもつ。この自己は意識の場で展開された精神の全内容をその形式的純粋性として充溢させる。言い換えれば、この自己はそこにおいて精神が歴史として実現されることが出来る空間を作図するのである。

J&L-678-8 この段落あたりで絶対知の第一部が有機的につながり、著作全体の構造が述べられている。「精神現象学」はその解決を意識と自己意識との二つの和解が一致することの中に見出す。この二つの和解とは精神の章の終わり(世俗の形態、悪と形式としてのその赦し)と宗教の章の終わり(内容としての精神的共同体の形態)にそれぞれ生じるものである。主題の秩序(著作の中の形態の連続)を理性の秩序(歴史における一方の形態の他方に対する先行)のために放棄する視点の逆転から宗教形態に一次性があると認められることになる。―宗教と歴史のこの哲学的一致をヘルダーリンは彼流に異父兄弟カールへの手紙で表現している。28/11/1797「われわれを結びつける神D ivinitに時折捧げ物をしなければならなりません、われわれを語ることで神を語り、われわれに永遠なるものがあることを祝祭する簡単で純粋な捧げ物です。」手紙・番号169WerkeY:316

J&L-679-1 規定のキアスム:外化の過程の最後で、意識あるいは世間の精神(精神)が自立のかたちの精神(意識の相互的承認)と和解する一方、自己意識の精神(宗教)が潜在的かたちの精神(教団)に和解した。

J&L-679-3 啓示宗教の結果

J&L-679-4 精神の章の結果

J&L-679-5 三つのパラグラフ(Wreke3:579.30〜)が絶対知の第一部を完成することになる。第一に、求められた一致を実現しうる形態が示され、次に、この構成の論理的機制が分解される。この展開の原理:一致を問題の二つの《和解》に外から付け加えることは出来ない。一致は意識、すなわち精神の章が描き出す《世俗》の形態によって生み出された二つの和解の一致のはたらきによってのみありうる。

J&L-680-1 《単純な単一性》が意味することのできるのはなお空虚な最初の肯定である。しかし、それは同様に、媒介過程の終わりで、単一性をもたらす行為における現実の再来も刻印する。このように《新しい精神の始まりは様々な教養形式の広範な変革の結果の産物であり、多様に絡み合った道のりと同じく多面的な努力と苦闘の報償である。この精神の始まりは連なり並びにその拡がりから自身に還った全体であり、この全体が単純な概念となったものである。》Werke3.19:14長谷川訳8:1この第二の意味で《単純な単一性》を理解するのがここでは適切である。

J&L-680-2 正確な意味では、精神の内容を実現することは《行動する意識》に帰属する。しかし、《行動する意識》がそうすることが出来るのは、《美しい魂》の確信である自己の純粋確信を《行動する意識》が実現する限りにおいてである。

J&L-680-3 宗教は、とりわけ信仰のかたちでは、《現実[意識]の彼岸である純粋意識の場におかれた本質》Werke3.392:22を対象とする。宗教はそれゆえ《神の直観》である。美しい魂はどうかと言えば、それは神的意識としてのそれ自身の直観である。―《道徳的天才はその直接知の内なる声を神の声として知る》Werke3.481:9というルソー主義者の伝統に従えば。

J&L-681-1 行動する精神となることで、美しい魂は本質との同一性を自覚する。―その本質はもはや抽象的本質ではない、美しい魂がそれ自身でもつ純粋知に外在世界での現実を与える本質である。

J&L-681-2 重要な契機:美しい魂が行動することを承諾して自らに与える実現は形式的和解を承認させただけである。美しい魂は絶対的内容を自分のものとして受容することで、自分の全現実を自己に得るのである。―それゆえ、美しい魂が歴史(出来事)に行き着く運動と教団の形態のもとで絶対精神が絶対精神と言われるようになる運動の思弁的同一がある。二つの和解を統一するとは、人間の行動は神自身の《美しい魂》を断念する運動をわがものとすることによつてのみ真理となる、と認識することである。

J&L-682-1 行動する美しい魂はそれ自身において分裂と和解(善と悪)の弁証法を繰り返す、この弁証法の知を宗教は表象のベールのもと展開したのだった。これをなす為、抽象を放棄し現実に他の意識に出会う為(この章の最後が思いおこさせる弁証法にしたがい)、美しい魂は絶対精神の人間化において用いられたのと同じ大きなちからを必要とする。かくして、最後に誕生した概念において、最も根源的な直接性と媒介が連なる。

J&L-682-2 行動する意識

J&L-682-3 判断する意識

J&L-683-1 かくして絶対知の第一部分は完了する。この部分は著作の再読に着手し、概念、主体、自由という《精神の形態》において完了する。―第二部分はこの結果からいくつかの帰結を引き出すだろう:思考の時間性並びに哲学的伝統の重要な学説への関連、論理学あるいは学との繋がり、直の世界とその偶然性への関係。

J&L-683-3 絶対知の言及で始まり、この結節となる段落は学の言及で閉じる。この二つの用語の思弁的同一性は次の事実に基づく。つまり、用語はいずれも、異なった組成の中で、《自己自身の知のかたちにおいて》、まず意識に次に精神自身に《現象する》同じ精神の表現なのである。この到達点は、学が、意識の真理ではないことの説得に関して、意識の真ならざる知によって評価されないなら、学はそれ自身において主張され通用することは出来ないだろうといわれたとき、「精神現象学」の序論で目指されていたものである。《この理由から、ここで現象する知の表現が企てられなければならない》Werke3.72:4長谷川訳54:19と序論で読んだように。ここでは《現象する》は意識が対象を産み出す運動と同じである。

J&L-686-2 tilgt.―すぐ言われるように、この《抹消》はまた《破棄(拾い上げる)》aufhebenでもある。時間性の不十分な形式が歴史の高度に検証されたverifie(真なるものに変じられた)形式に転記されるに応じて。

J&L-687-1 このようにしてヘーゲル哲学の一般的問題は次のごとく定義される《わたしの洞察では―この洞察は体系自体の提示によってのみ正当付けられなければならないものではあるが―全ては真なるものを実体ではなく、主体として把握、表現することにかかるのである。》Werke3.22:32、長谷川訳11:1

J&L-687-2 真なるものは《それ自身の生成であり、自分の終わりを目的として前提し、実現と自分の終わりによってのみ現実となる円環なのである。》Werke3.23:30、長谷川訳11:16

J&L-691-4 絶対知のこの理解水準は「論理学」が固有の契機をその内に展開し得る場を構成する。このように学は通常意識の二元論の解消を前提としている。

J&L-692-2 現象学的論証と学の展開を支配する論証の指摘されたばかりの論理的違いが「精神現象学」と「論理学」の単純な比較表の作図を許さない。実際、絶対知に結集された意識の全形態が各論理的思考規定の内容を語るために必要となる。同じく、存在、本質、概念の全過程が現象学的形態各々の解決への到達に不可欠である。これが現象する精神形態一般がここで問題となる理由である。

J&L-692-3 この精神の開放Entlassen seinerは、自己自身を知る概念が偶然の領域おいて自分の確信を賭ける運動を示すものだが、字面を度外視すれば、自然と精神の形態で用いられるために《自由にそれ自身で分離する》論理学の《絶対的自由》に類似のものである。

J&L-693-1 著作の循環によりまず結果は現象学的直接性の第一形態(感覚的確信)に新たに位置することとなる。客観を主観へ緊密に関係づけるこの方程式の彼方で精神に可能となるのは、根源的外在との対決である。つまり、意識の解読にさらされるものを意識が先決し得ることなく、偶然なもの(空間に応じた偶然、そして時間に応じた偶然)の受け入れとその因子の、可能性と―必然性―が開かれる。自然と歴史(ヘーゲルは自然と精神とは書いていない)は、したがって、直ちに「エンチクロペディー」の第2部と3部での認知の手段となる領域を意味するのではなく、より大きくかつより正確なやり方で、人間にとって外的で、人間を規定し同時に人間に規定されるものの全領域を意味している。

J&L-694-1 記憶Erinnerung:この節全体の本質的用語。これは精神が出来事を内在化する働きを意味する。精神は出来事を精神固有の構造へ加える(実体の主体への変換)ことで出来事を経験するが、同時に理論的にも実践的にもこの知の新たな外在化を準備している。このように、記憶Erinnerungと外化Entaeusserungは精神の内在化と外在化の関係を規定する概念過程の不可分な二面なのである。

J&L-694-3《ともあれ、個人は一般精神のさまざまな教養の段階を内容に即して通過していかねばならないが、一つ一つの段階は、整備された一本道の上に、精神のぬぎすてた古着として置かれている。だから、知識の程度についていえば、かって成熟したおとなの獲得すべき知識だったものが、子どもの知識や技能や遊びに格下げされるし、教養の進歩につれて、世界の教養史を、まるで影絵でも見ているかのように追いかけることになる。:作品社》Werke3.32:15、長谷川訳18:13

J&L-695-1 現象する知の学:序論ですでに、ヘーゲルが強調したように、《学》は単なる断言ではその価値を認めさせることは出来ず、つきなみな経験の二元論をのりこえて妥当性を証明しなければならない。《この理由から、ここで現象する知の表現が企てられなければならない。》Werke3.72:4長谷川訳54:19

J&L-695-2 概念化された歴史:著作全体を要約するこの逆説的な用語は、所与の内容の自由(ここでは歴史があらかじめ定められることなく《生起するもの》である)と概念の形式としての知的形式の必然性を結びつけている。

J&L-695-3 ゴルゴダの丘:キリストの死の場所―宗教的語彙への回帰は、この語を通し、並びにシラーの引用とともに、絶対知により解き放たれた精神のエネルギーが宗教が示す精神のエネルギーそのものであることを思い起こさせる。《絶対精神》はそれ自身の確信の偶然の領域への関わりによって必然性を認識するが、宗教がその必然性を強調するとき、表象のベールのもと、宗教はこのエネルギーを示す。《神の生命と神の認識を、愛が自己自身とたわむれることだと表現するのはかまわないが、そこに真剣さも苦痛も忍耐も負の働きもないと考えると、愛のたわむれ説は退屈なお説教になってしまう。:作品社》Werke3.24:1長谷川訳11:19

LE-516-2 sich bekennenひとが何に帰属するかを知らしめすこと:だれかの友の数に、特定の宗教に、政治的信念、集団等々、要するに、われ関せずの孤立を断念すること、別の審級に同一化すること。

LE-524-4 Die Freundschaft Aus dem Kelche dieses Geisterreiches/Schumt ihm seine Unendlichkeit.(この精神の王国の杯から、精神の無限が沸き立つ)細かいことは別にして、シラーの詩『友情』(1782)の結論部分が問題なのである。世界の支配者、至高存在は自分に似せて諸精神を作った、しかし同胞を見出すことはなかった、ただ、無限を見出しただけだった。ヘーゲルは文のはじめをnur(唯一)にし、なによりdie Unendlichkeit(無限)をseine Unendlichkeit(精神の無限)に置き換えることで 、シラーの詩の末尾の意味を変えている。この諸精神と神の、より楽観的な、弁証法的繋がりを招き入れているのである。
 *通常ドイツ語ではdas Geisterreichやdas Reich der Geisterは冥府のことである。

nur -

aus dem Kelche dieses Geisterreiches

schaumt ihm seine Unendlichkeit. 

(Hegel)

Aus dem Kelch des ganzen Seelenreiches

    Schaumt ihm - die Unendlichkeit.

(Schiller)

(中澤)