運命は実存的意味をもつ。不条理な自由の自覚ではなく、自由の不条理な結果の自覚である。 運命はミネルバの梟ではない一個人としての我々にもっとも身近な概念なのだ。ヘーゲルの運命は民族、歴史の運命であり、それは一面では世界法廷である世界史の他面である。
運命を持つのは人間のみである、なぜなら人間は自由意志でその生涯あるいは“運命”を選択できる自身と、自己制御を超え敵対するものとしてさえ現れる外的出来事を対比できるからだ。物に運命はない。生き物のその類への帰趨(死)は運命であるが、対象としての生き物は外的に規定されていることがその本質である故、運命を持たない。
運命の働きの意味は漠としてはっきりと捉えられない、この不条理が運命を摂理と分かつ。
ΙΛΙΑΔΟΣ Ι
μήτηρ γάρ τέ φησι θεὰ θέτις ἀργυρόπεζα
διχθαδίας κῆρασ φερέμεν θανάτοιο τέλοσδε.
εἰ μέν κ' αὖθι μένων Τρώων πόλιν ἀμφιμάχωμαι,
ὤλετο μέν μοι νόστος, ἀτὰρ κλέος ἄφθιτον ἔσταιˈ
εἰ δέ κεν οἴκαδ' ἳκωμι φίλην ἐς πατρίδα γαῖαν,
ὤλετό μοι κλέος ἐσθλόν, ἐπὶ δηρὸν δέ μοι αἰὼν
ἔσσεται, οὐδέ κέ μ' ὦκα τέλος θανάτοιο κιχείη.
アキレウス「すなわち 母なる女神、白銀(しろがね)の足のテティスが 言いたもうには、
二筋に別れた運命(さだめ)が 最後の際へ我身を 運んでゆこうか。
もしこのまま踏み止まって、トロイエー人の都を的に 戦おうなら、
帰郷の秋(とき)は失せる代り、不滅の誉れを贏(か)ちえるであろう、
もしまた故郷(くに)へ戻って、なつかしい祖国の土を踏むときには、すぐれた名誉は失せる代わりに、私の寿命は長[かろうと]。
≪くあろうし、早急には最期の際に到りますまいと≫。」
「イーリアス」9巻 呉 茂一訳 岩波文庫
ΙΛΙΑΔΟΣ Σ
ὠκύμορος δή μοι, τέκος, ἔσσεαι, οἷ' ἀγορεύειςˈ
αὐτίκα γάρ τοι ἔπειτα μεθ' Ἕκτορα πότμος ἑτοῖμος.
テティス 「きっとあなたの寿命もじきに尽きよう、話のようでは。
だって直ぐさま ヘクトールにつぎ、死ぬ日があなたを待っているのです。」
アキレウス 「直ぐさま死んで終いたいもの、友達が殺されるという間際にさえも
護ってやれない仕末ですから。それで彼奴は 祖国(くに)から全く
遠いところで、私が破滅を 防いでやれないばっかりに死んだのでした。」
ὡς ἔρις ἔκ τε θεῶν ἔκ τ' ἀνθρώπων ἀπόλοιτο,
καὶ χόλος, ὅς τ' ἐφέηκε πολύφρονἀ περ χαλεπῆναι,
ὃς τε πολὺ γλυκίων μέλιτος καταλειβομένοιο
ἀνδρῶν ἐν στήθεσσιν ἀέξεται ἠΰτε καπνός・
ώς ἐμὲ νῦν ἐχόλωσεν ἄναξ ἀνδρῶν 'Aγαμέμνων.
ἀλλὰ τὰ μὲν προτετύχθαι ἐάσομεν ἀχνύμενοί περ,
θυμὸν ἐνὶ στήθεσσι φίλον δαμάσαντες ἀνάγκῃ・
νῦν δ' εἶμ', ὂφρα φίλης κεφαλῆς ὀλετῆρα κιχείω,
"Εκτορα・ κῆρα δ' ἐγὼ τότε δέξομαι, ὁππότε κεν δὴ
Ζεὺς ἐθέλῃ τελέσαι ἠδ' ἀθάνατοι θεοὶ ἄλλοι.
アキレウス 「まったく諍いなどは、神界からも 人の世からも失せればよいのに、
---それと忿(いか)りが、---これこそ思慮に富む者をさえ腹立ちへと唆(そそのか)しつけ、
融けて滴る蜜よりもなお はるかに甘い心地でたやすく
人間の胸の奥処(おくど)に、煙のようにも むらむらと立ち拡がるもの、
ちょうど先頃私を 兵らが君アガメムノーンが 怒らせたよう。
でももう以前に起こったことは どう辛かろうと抛(ほう)っときましょう、
たぎる心を胸の底いに余儀ないものと抑え付けておき。
今こそ私は出てゆきます、愛しい友を殪(たお)した男、そのヘクトールと
出(い)で会うために。死の定業(さだめ)はいつなりとも身に受けましょう、
ゼウスなり、余の不死なる神々なりが 果たそうと望まれる時。」
「イーリアス」18巻 呉 茂一訳 岩波文庫
アキレウスは彼の友の仇を討つため死に向かおうとする。これは、<大君の辺にこそ死なめ>とは違う自己を自覚した行為だ。ただ、外的出来事が自己に反するものとして現れるまでには、ギリシャ人には自己と外的世界の判別は明白なものではなく、パトス(激情)が個人を超えた。アキレウスに運命は宿命(アナンケー)として現れる。
無垢なのは石だけだ、石は行為しない。人間は行為しなければならない。行為は存在の静寂を乱す。人間における存在との純粋な一致ではないものが、自己と分離したものとして現れる。人間はそこに運命を読み取り、生涯の只中で運命を見据える。運命と対峙し見据えながら、人間は愛により運命と和解することが出来る。運命愛(amor fati<ニーチェ>)は死しかつ生成することであり、運命というものとの、あるいは世界史との自己の最高の和解となるものである。これはヘーゲルにとり自由についての至上の意識となるであろう。
「・・・・・人間の生きかたにかんし、古いことわざにいう『幸福はみずからの手で築くもの』という事柄の大切さについて一言しておきます。いう意味は、人間というものは自分に満足するしかない、ということです。これと対立するのが、自分にふりかかったことの責任を他の人間や不利な状況などになすりつける態度です。これは、前にいった不自由の立場であり、同時に、不満足のもとです。反対に、自分に生じることは自分から出てきたことであり、自分で自分の責任をとるのだと考える人は、自由にふるまう人であり、どんなことに出会っても、不当な仕打ちをなど受けていないと信じられるひとです。自分と自分の運命に満足しない人は、他人から不当な仕打ちを受けたとあやまって思いこむがゆえに、みずから多くのまちがったこと、邪(よこしま)なことをするのです。たしかに、わたしたちに起こることには偶然の要素がたくさんふくまれる。が、偶然性は人間が自然の存在であることに起因するので、自由の意識をもってさえいれば、いやなことに出会っても魂の調和や心の平和が乱されることはありません。というわけで、人間の満足・不満足と人間の運命は、必然性をどうとらえるかによってきまってきます。」
ヘーゲル「Enzyklopaedie der philosophischen WissenschaftenⅠ§147 Zusatz」長谷川訳「哲学の集大成・要綱 第一部 論理学」作品社 p324
これがヘーゲルのひとの生き方ついての基本的考えである。また、大きなスケールで見れば、われわれに生ずることは、見通しのきかない運命ではなく、むしろ世界精神の摂理に方向づけられているというのがヘーゲルの思想である。
歴史は諸民族の弁証法である、なぜなら、民族は精神の具体的化身であり、全体であると同時に個体であるからだ。精神が実現されるのは個別の民族においてである、たとえば、アブラハムに始まるユダヤ民族のように。アブラハムが行ったのはその親族からの、愛、共同体からの分離、自然との調和からの離反だ。人と世界、人と人、人と神の分離、世界への蔑視がユダヤ民族の運命となる。アブラハムの神は嫉妬深い神、喜びと自由ではなく、くびきの掟を課す神である。民族の精神、宗教の精神、歴史を作る人々の精神、この精神はそれら民族、宗教、人間の運命となる。この個別的運命は運命一般として実定的なものになり、具体的生から乖離し、新しい登場人物がうまれでるため消え、昇華されなければならぬ残滓となる。この汎悲劇は以下のような汎論理に移行するものである。
「もしこれらの契機がその純粋なままに取り出されるとしても、それらは不安定な概念であって、それらはそれら自身においてそれらの反対である限りにのみ存在し、それらの静止を全体のなかにのみ見出す。」
Hegel 「LA PHENOMENOLOGIE DE L'ESPRIT」TOMEⅡP274 Traduction de J.HYPPOLITE
イポリット[注]全体--- 参照. ヘーゲルが念頭に置いている論理学の概念 「自然と有限な精神の創造以前の永遠な本質のうちにあるものとしての神」(Wissenschaft der Logik,ed,Lasson,Ⅲ,1,p.31)
(中澤)
cf. Introduction a la philosophie de l'histoire de Hegel, Jean Hyppolite , Edition du Seuil
A Hegel Dictionary , Michael Inwood, BLACKWELL
Woerterbuch der philosophischen Begriffe , J.Hoffmeister, Felix Meiner