ヘーゲルを読む会



天皇ははっきりと定義されているわけではない。

 第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 天皇が日本国民統合の象徴で、日本国民の総意に基づくのは実定法の意味に置いてであろう。日本国民は一度も天皇を象徴と認める意思表示(投票)を行ったことはない。

第一一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
 Article 11. The people shall not be prevented from enjoying any of the fundamental human rights. These fundamental human rights guaranteed to the people by this Constitution shall be conferred upon the people of this and future generations as eternal and inviolate rights.

 日本国憲法において人間の基本的人権が明記されるのは、天皇、戦争の放棄のあとである。考えようでは憲法前文(日本国民は、・・・・・、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。)にもかかわらず、天皇の扱いと軍事力の破棄が戦後日本の始まりにおいて人間の自然権より重視されたということだ。

 人権はヘーゲルの言うごとく人間の定義に基づくものであり、近代法の母体となっている。

 “We hold these Truths to be self-evident, that all Men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the Pursuit of Happiness ,”
<The unanimous Declaration of the thirteen United States of America July 4, 1776>
「われらは、つぎの真理が自明であると信ずる。すなわち、すべての人間は平等につくられ、造物主によって一定のゆずりわたすことのできない権利をあたえられていること、これらの権利のうちには生命・自由、および幸福の追求が含まれていること。」
<アメリカ独立宣言1776年7月4日>

”Article premier - Les hommes naissent et demeurent libres et egaux en droits.Les distinctions sociales ne peuvent etre fondees que sur l'utilite commune.
Article 2 - Le but de toute association politique est la conservation des droits naturels et imprescriptibles de l'homme. Ces droits sont la liberte, la propriete, la surete et la resistance a l'oppression.”
<Declaration des droits de l'Homme et du citoyen26 aout 1789>
第一条人間は自由かつ権利において平等にうまれ、生存する。社会的区別は公共の利益以外に基づくことはできない。
第二条 あらゆる政治結社の目的は人間の生来ものであり、かつ絶対取り消せない権利の維持である。これらの権利とは自由、所有権、安全および圧制に対する抵抗である。」
<フランス人権宣言、1789年8月26日>

Article1 All human beings are born free and equal in dignity and rights. They are endowed with reason and conscience and should act towards one another in a spirit of brotherhood.
「第一条 すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。」
<世界人権宣言 1948年12月10日 第三回国連総会採択>

 endowが<神が賦与する、生まれながら持っている>の意味であるに対し、conferは<好意、名誉、資格などを付与する>の意味である。日本国憲法は直前に採択された世界人権宣言のことばendowさえ踏襲していない。日本国民は憲法の保障する基本的人権を生得のものとしてではなく単に与えられたのである。こういう表記の仕方であれば、誰が与えたのか問いたくなるが、明記されていない。

 第一条にもどろう。天皇の地位が日本国民統合の象徴なのだろうか、あるいは天皇が生理として象徴なのだろうか。明記されていない。

 天皇が人間なのであれば、象徴として選挙権もなく、法によりその地位を世襲にしなければならないなど人間の自由に違反することだ。

 大体、象徴という言葉が曖昧模糊としている。

 然レドモ朕ハ爾等國民ト共ニ在リ、當ニ利害ヲ同ジクシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等國民トノ間ノ紐帶ハ、終止相互ノ信頼ト敬愛ニ依リテ結バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ旦日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル觀念ニ基クモノニ非ズ。
<新日本建設ニ關スル詔書(人間宣言)昭和21(1946)年1月1日>

 いわゆる天皇の人間宣言も何に基づきその地位にとどまるのか明言されていない。現御神/象徴、戦争/有事、首切り/リストラ、売春/援助交際・・・すりかえとも、事態の変様ともとれるこれらのことばは、体を表しているか、あるいはことばが体をなすか。

 国体はほとんど死語になりつつあり、日本の人々(国民、市民、人民・・・どれが適当か)は天皇にこの詔書ほどの信頼ト敬愛をもってはいない、と思う。皇族に対する敬愛はワイドショーの敬愛に過ぎない。日本国の装飾にすぎないのだから、目くじらたてるに及ばない、外交などに活用できるのだから、そうのように機能させればよいのだ、とかんがえることもありうる。

 ただ、象徴天皇が日本人の基本的人権意識を希薄にしているのは自明だ。また、象徴天皇は安保体制と並立した戦争放棄とともに、戦後日本の体制を曖昧なものにした。ここでは戦争放棄については語らない。ただ、筆者は歴史が戦争の消滅に向かっていると思う。また、憲法改正が第九条に集中し、一面、首相の神の国発言を大報道するわりには、同じく曖昧な第一章天皇については際立った提言がないのはおかしなことだ。

 天皇が廃止されるのは日本文化の喪失だと言われるかも知れぬ。しかし、天皇制が日本の文化と関連するのは国体思想のようなもののみで、日本人の精神的伝統のほとんどは、天皇制と無関係だと思う。宮内庁を民営化し民事としての天皇で信頼ト敬愛をうければ、十分伝統を維持できるだろう。文化、宗教である天皇ではなく、統治の形態、方法である天皇が人間の定義に矛盾するのである。

 天皇の戦争責任については、GHQは敢えて出来なかったのだろうが、戦争責任が問われ、農地解放や財閥解体と同じく天皇制廃止がなされていたら、すくなくとも、日本人は国際社会の中での自己確認にもう少し積極的になったかも知れぬ。

 日本人の戦争犯罪は戦後ほとんど日本では話題にならなかった。戦争体験はまったく内向きだ、原爆、空襲、特攻、玉砕、抑留、遺族、疎開、戦争孤児、残留孤児、これらはみな日本人の蒙った戦争である。我々は肉親の戦死や空襲や疎開の話を聞いた。また、新聞、テレビ、ドラマなどが伝え、心情に訴えるのは上記の言葉たちが表現する日本人の戦争体験である。戦争放棄と平和はそうして日本人の心根に浸透した。しかし、中国人、朝鮮人あるいは他の人々を虐殺、暴行、強制徴用、差別扱いしたことの反省は日本人の心底に届いていないと思う。事件として知られているとか、国家賠償があったなどとは別に。東京裁判で完了したのではない、日本人自身が戦争犯罪をさらに訴追すべきだった。そこまでは求めないにしても、日本の軍隊がおこなった残虐行為を中国や朝鮮半島の人たちの顔が見える戦争体験として我々はうけとめなければならなかったのだ。南京事件の聞き取り調査がごく最近黙秘した口からやっと行われたのは悲しむべきことだ。日本人の軍隊の犠牲となったひとたちは我々にとってこれまで、某中国人、某朝鮮人・・・でしかなかった。彼らの名も生涯もわれわれは知らない。共産主義、軍政、反日感情が彼らの顔を隠していたのは事実だとしても、日本人の戦争体験はあまりに内々だった。原爆、敗戦の十字架を背負って贖罪されたと思い込んでいるごとく。このような意味で戦後の日本人は象徴天皇のもとにいたと言うべきだろうか。

 ついこの間まで中国へ旅行に行くなど思いもつかなかった。今中国の何処へでもいくことができる。また、日本の公共放送が外国語講座に隣国の言葉を含めたのは最近である。少しずつ、沢山の彼らの顔が見えてきたのは明るいことである。

 この文章を書くためいろんなホームページを利用させてもらった。WEBの情報が全球化し、現代のアレキサンドリア図書館になることを希望します。(全球化はテレビでの加藤周一の説明ではグローバリズムの中国語訳だいうことだ。此方のほうが素敵なので使わせてもらった。ただ、ここでの意味はもともとの意味とは多少ずれているが。外来語のカタカナ表記はすこし問題がある。よこのものをタテにし、その語の意味を熟慮せず呪文のようにもちいる。原語を知らない限りカタカナから意味をたどることができない。カタカナはまさに直示的であって、対象が抽象的である場合理解不可能だ。ひるがえって中国語はグローバリズムの意味と発音を考え、それを表す漢字をあてて全球化とした。こうしてグローバリズムの大体の意味を中国人は中国語で理解できる。それに対しクローバリズムと書かれる時、globeやglobalismを知らなければその意味を把握することは困難である。しかし、視点をかえれば、中国語は漢字の球面を突き破れないということである。)

(中澤)