ヘーゲルを読む会

第三部 人 倫



<1.人倫の理念 §142−147>

抽象的概念としての人倫とは主観的意志と客観的意志の一致、意志の主観性と同一となった意志の普遍性である。意志は思考する意志として普遍的であり、思考する意志である私が意志するものは人倫なるものだ。

無比の完全に人倫的な関係は婚姻と国家である。

§142<自己意識と人倫的存在の統一としての自由の理念>

  善は惰性的にあるのではない。善はそれが知り意志する限りで生ける人倫となる。この意志するものとは主観的意志だ。善は実現され、行動する。このことは同じく主観により生ずる。逆に、自己意識は人倫にその土台と運動を得る。人倫は主観の意志と知であり、主観により現実となる自由の概念である。

§143<存在としての人倫と意識としての人倫>

意志の概念と意志の存在(特殊な意志)の統一は知であるゆえに、理念のこれら両契機の区別が意識されている。しかし、今や両契機はそれぞれ理念の全体性であり、理念を基礎と内容にするのである。

<a.客観的人倫:§144.145>
§144<規則と制度>

α)客観的に人倫的なるものとは無限な形式の主観性によって具体化された実体である。

  実体はそれ自身において区別を立てるのだが、この区別は概念の規定であり、こうして立てられた区別により人倫は確固とした内容をもつ。この内容はそれ自体で必然であって、主観的思い込みや意向を超えて成立するものなのだ。―――つまり、絶対の掟と制度である。

§145<諸々の人倫的威力>

  人倫が理念の実体的規定であるということが人倫を理性的なものとしている。

  人倫はこのようにして自由であり、すなわち客観的なものとしての絶対的意志であり、必然性の円環であるのだ。この円環の契機は諸々の人倫の威力だが、これらの威力は個々人の生活を支配し、人倫の偶有性としての諸個人の中にその心象と現象形態と現実をもつ。

  婚姻、畏敬の念、国家がこの人倫的威力である。

§146<掟と支配の権威>

β)主体にとって、人倫的実体、その掟と威力は一方で対象の関係にあり、その場合それらは最も高度な意味で自立して存在している、――絶対的で、自然の存在に比べればはるかに堅牢たる権威と威力なのだ。

  ソフォクレスは言う、神々の掟は永遠であり、不変であって、それが何処から来たのかは誰も知らないと。

  ひとは自然や自然の生き物をむしろ尊重し、それらに神の叡智や理性を見て驚嘆するが、そうであれば、人間の掟や神の掟や人倫の掟はいくばくか低く見られてしまうだろう。しかし、精神は自然より高次なのであり、人倫的実体というその本質的姿にある精神的なるものは自然に対しより高次なるものである。

§147<自己意識が現実に生きることとしての人倫>

  他方人倫の掟と威力は主体にとり異質なものではなく、主体はその中に自己感情をもち、それらを自分の本質として精神により証し、自分と区別されことのない本領としてその中に生きる。それは、信仰や信頼といったものさえよりも、もっと直接に同一となる関係だ。

  掟は主体と別のものではあるが、異質なものではない。自己意識は掟において自己自身のもとにあり、その限りに於いてはじめて精神なのである。そうでなければ、精神を失う。非精神的な掟に隷属することもありうる、しかし、ただ奴隷のように従うに過ぎない。

<Rph§147A:客観的人倫に対する隔たりの段階>

  人倫が自己意識の現実的生命力であるような関係、あるいはむしろ関係が消失する同一性と言っていいが、それはもちろん信仰と信頼の関係やさらにその他の反省により媒介された関係へと移行する。

<1.実体的人倫と反省>
 
  人倫的主体において(掟との)関係は同一であり、その関係が主体の存在となっている。

<2.人間における精神の証し>

  人倫的なもの、それは宗教であり、キリスト教であるのだが、このキリスト教は人間の精神の証しによって確証されなければならない。

  主体が人倫的である限り、主体自身が人倫的なのであり、与えられたものとしての掟とは別の仕方で現象するのは主体自身である。

<3.実体的人倫の例>

  ラケダイモンの使節がペルシャに派遣された時、あるペルシャの総督が彼らにその地に留まるよう説いた。彼らは答えた「あなたの話はあなたの経験に拠っている。もしあなたが我々の味わっている幸福を味わうなら、あなたはその幸福のために命や財産を手放すよう我々に忠告するだろう。」

  彼らは何もほかの事を知らないし、まさにそのように存在している。ギリシャ人やアテナイ人が彼らの掟についての信仰や洞察持っていたなどと言うことは出来ない。信頼すらなかったであろう。何故ならこのことは個人の区別を前提とするからだ。その場合ひとは国家の存立の中へ彼自身の存立を据えるのであり、そのように国家への信頼をもつのだ。                                                                    <4.反省と思考>

  反省は必ずあるというものではない、だから人倫とは人倫に則った個人の生活かもしれない等という思い込みはつまらぬことだ。自分の目的が普遍的内容を持つ限りでのみ個としての人は人倫に則っとるのだということを知らねばならない。この普遍的内容を知ることはまたひとつ別のことなのである。思考する意志、或いは意志する思考が個としての人だとしても、このことをもう一度考えるということはまた別のことなのである。人間は精神であるのだが、人間が精神であるということを知ることはそのことと別なのである。

<2.人倫の義務:§§148−150>
§148<義務としての実体的規定>

  人倫の威力は主観的で、内的に定まらぬ、特殊なものに拘泥した個人に対し実体的規定としてあり、――その意志を拘束する義務である。――

<1.拘束力の起源>

  人倫に基づくものだけが個人を本当の意味で拘束する。

<2. 人倫に基づく教育>

  人倫の特質が義務の本質を形成している。生まれついたままの人間にはこの特質が、その有用性に基づいて、推奨されなければならない。このことは個々の衝動や欲望の抑圧を引き起こす、人倫の特質が習慣になるかどうかが問題なのだから。

 上述の原理はもちろん間違っている。義務が手段となるような歪んだ関係だ。そこに留まるなら人倫は存在しない。

§149<制限としての義務と解放としての義務>
<1.制限>

  拘束力をもつ義務が制限として現れるのは、何にもとらわれない主観や、自然的な意志の衝動、あるいは好き勝手に自分の漠とした善を決め込む意志の衝動に対してのみである。義務とは自己自身を限定し、他者の自由に余地を空ける正義(権利)Rechtと思ってよい。義務は、ただ恣意に対する制限であるにすぎず、自由の完璧な肯定なのである。

<2.解放>

  個人は義務の中に解放を得る、1)単なる本能における従属から、2)当為と許容の道徳的反省の中で主観的孤としてある圧迫から、3)行動の客観的決定に至らず、内に留まり、非現実なものでありつづける不確かな主観性から。

<3.肯定的な意味での自由>

 義務において個人は実体的自由へと解き放たれる。

 自由は精神的であり、具体的であり、それ自身で断固たるものである。人倫は実体的自由であって形式的自由ではない。後者は非精神的な精神で恣意なのだ。形式的自由は善を抽象的なものと見なして悪と対抗するが、内容は自分のもとにはないから形式的に自由であっても内容を欠く。

§150<実直さとしての徳>

 人倫的なものが素質によって規定された個人的性格に関してあらわれる場合、人倫的なものは徳である。自分が帰属する境遇における義務への個人の適応しか表さない場合、徳は実直さである。

<1.ギリシャ人の”自然的な”人倫>

 ギリシャ人において我々がおもに認めるのは徳だ。ギリシャ人の徳の現れは個人の人倫的なものとの自然な一体化である。徳は芸術作品という仕方で現れる。芸術は理念を自然の外面性と結びつける。彫像では徳は完全に外面性をとおし、外面性の中に現れる。徳はもちろん個人の心情の陶冶や訓練であるのだが、そこから生み出されるものは自然的な現れ方をする。

<2.性格上の徳>

 有徳であることが個人の天才性であり、自然的なものとして現れるのが英雄だが、そのようにして多少とも自然的な現れ方をしなければならない徳が存在する。一方に物理的な強さがなければならない勇敢さもあれば、他方思慮や沈着さや静かな思考力が伴う軍司令官の知的勇敢さもある。この勇敢さは勇敢さとしてではなく、将軍の能力として現れる。勇気のあり方はむしろ知や決断のそれだからである。

 諸々の徳は性格に帰せられる個別的側面である。徳は個人における人倫の特殊な形態である。このような徳には偶然性がともなう。倹約も徳だし、気前よさも徳である。ここにはそれ自体で必然な規定はない。

<3.実直さ>

 実直さはそれ故徳と区別される。実直さは特殊な性格として現れるのではない、むしろ普遍的あり方に支えをもつ。

<4.アリストテレスの徳論>

 徳の取り扱いはアリストテレスがしたように精神の自然誌なるであろう。徳は特殊な個人の問題であるため、それ自身に尺度をもたない。その規定は本質的概念規定ではない。それで、アリストテレスは徳を過多と過少に対する中庸であると叙述している。徳の成り立つ領域ではこの外的で非本質的な規定以外のものはない。

<3.弁証法的展開の目標としての人倫:§§151−155>

§151<精神としての人倫的実体>

 人倫が諸個人の現実と単純に一致しているならば、それは習俗Sitteである。習俗は単なる自然意志のかわりに据えられる第二の自然としての人倫の習慣であり、貫く魂であり、世界として命をもつ目の前の精神である。

<1.回顧と展望>

@人倫は人倫の関係(義務)の体系としてそれ自身において特殊化する。<§§144.145>
A個人が人倫とのこの一致を知り対象化する一方、人倫と一体化していること。<§§146.147>
B現に存在する現実としての人倫。<§§151―155>

<2.人倫の現実性としての精神>

 人倫に則る人間がはじめて精神をもち、精神としてある。何故なら、精神には実体が意識されること、つまり国家のような普遍的目的と関心が意識されることが必要だからであり、個々人のこの目的、この意志、この存在や彼らの内の衝動が人倫的実体であるということが必要だからである。

<a.抽象的権利の自由意志>

 法人格は自らに存在を与えるが、その存在は差し当たり物件である。抽象的権利において私の望む形式は、私が自由をもとめることであり、私が特定の存在を持とうとすることだ。しかし、その場合私は物に関連する特殊な個人であり、私が求めるものは自分の特殊な欲求のための物件である。この特殊な内容は外的な物である。ここでは意志は精神としては存在してなく、如何なる実体的内容ももたない。

<b.道徳の自由意志>

 道徳の立場においても自己意識はいまだ精神としてあるのではない。道徳では自己自身の中の主観の価値だけが問題なのである。主観は悪に対立する善に縛られていて、なお恣意の形式をもっている。善はその実体の規定をもたず、その概念である自己自身へ関係づけられていない。

<c.人倫の精神としての自由意志>

 人倫の立場において意志は精神の意志としてあり、実体的内容をもつ。何故なら、それが自由の内容であり真なるものであるからであり、また同じく精神の証しがあるからである。

<3.習俗と人倫>

 習俗はその限りで共通の行動様式をもつ個人そのものであり、固定したものだ。ギリシャ人の場合人倫は現代よりもっとはっきり習俗の形で存在していた。古代人おいて反省は我々より発展していなかったし、良心については何も知られていなかった。

<4.人倫への教育>

 個人がどのように道義的sittlichな人になるのかというのは我々の考察の範囲ではない。それは教育学の問題だ。教育学は人間を自然人と見なし、人間を生まれ変させる道程、人間の第一の自然を彼の精神的な第二の自然にし、そのように精神的なものが彼の中で習慣となる道程を示す。

<5.習慣>

 習俗は諸個人から成る習慣である。我々は一方で習慣を何かつまらぬものと見なしている。生活に埋もれてしまったひとにおいては内容はまったく客観的になってしまう。すなわち主観的意識という精神活動が消えてしまっている。このことは何かを為し終わってしまった無関心状態であり、この無関心は愚鈍だし、精神と肉体の死だ。

 他面、習慣においては自然的意志と主観的意志の対立は無くなる。習慣とは人倫がひとの生存となり、ひとを動かし、ひとの実体となることである。

 哲学や思考にとっても習慣は必要である。精神が形成されるとは恣意的思いつきや心像が打ち破られ、克服され、阻止されるということである。それによって理性的思考に道が拓かれる。

<6.対象としての精神>

 人倫Sittlichkeitは個々人の道義Sittlichkeitとして立てられるgesetztものだ。しかし、習俗Sitteは多数の個人による道義Sittlichkeitとして存在する。そのように、人倫は個人の道義としてあるだけでなく、多数の個人による道義としてある。

 人倫はまず個人の主観と彼の普遍、彼の概念との合一である。われわれはそれと同時に多数の個人の合一を思う。何故なら、精神としての人倫はこの合一の意識であり、それが様々な仕方で対象となるのだから。

<a.宗教的対象>

 この合一(人倫)が普遍的表象において対象となるなら、それは宗教だ。家の守り神Geistであり、アテナのような国の守護神Geistであり、最後はわれわれの意識のうちの絶対的に普遍なる神Geistである。

<b.人倫の関係>

 第二の形式は人倫が直接目の前にあることである。人倫は自己意識としてのみ現れ出る。私にとり対象となるその人倫は他者のなかに現存する。個としてのひとは結婚の人倫関係において愛の合一を自覚し、他の個人との愛のなかで人倫を対象とする。

 一個の国民は他の国民に関し同じ国民としての合一の直観をもつ。私は私の意識、私の自己を他者の中にもつ、そうして人倫を合一として直観する。

<c.ひとつの世界としての人倫>

 この合一は他者の中にだけ意識されるのではない。合一の体系についての知としての知識がある。この体系は様々の身分、活動域、集団等々に区分される、これらが国家であり、常に国家を産み出すのだ。

 人倫はひとつの世界である。人倫は個性として現実に存在し、その場合はかれの第二の自然としてあるのだが、また外的自然としてもあるのである。私は合一を人倫的自然物として、本質的に言えば、ひとつの自然である体系として知る。

§152<不動の動者である目的としての人倫と実体性と主体性の統一としての人倫>

 人倫が普遍妥当するのである。他の要素はそれと衝突するなら破棄され、二次的なものにされなければならない。主体にはその中で人倫が働く純粋な形式としてあると言うこと以外なにも残らない。主体は人倫という実体に対し何ら特殊なものを持たない限り、ただ人倫に則っているだけだ。しかし、その場合、主体は自己を対象としているのだから、完全に自己のもとにあるのである。

§153<主観的確信の真理としての人倫>

 個々の自由への使命関する権利は、彼らが人倫的現実の一部であることでその実現を得る。個々の自由の確信はこのような客観性の中にその真理をもつのであり、人倫の中に彼ら自身の本質や内的普遍性を現実に所有するからである。

<Rph§153A:古代の人倫世界>

 息子を倫理的に教育する最良の方法をたずねた父親に、あるピタゴラス派のひとは、「よき法律のある国の公民にするなら」と答えた。

<1.倫理的教育の問い>

 ひとのあるべき姿が如何なるものなのかを問われるなら、それは今ある倫理的原理が内容と分離し始めている徴である。

<2.ギリシャ人の答え>

 ピタゴラス派のギリシャ人の答えは重要で、真実のものだ。国家の公民としてひとが何であるのかを意識し、対象とし、知ることである。

§154<特殊性の権利:普遍意志と特殊意志の一致>

 特殊なものは本質的には特殊なものとして存在するのではない、本質的なものとの調和の中に、それに担われてのみ現出するに至るのだ。

§155<権利と義務の一致>

 抽象的権利においては私が権利をもち、他者はこの権利に対する義務をもつ。

 道徳ではただ私自身の知と意志の権利、並びに私の幸いの権利が義務と一致し、客観的であらねばならない。

 人倫においては義務と権利は直接に同一である。私の義務であるものは、また私の権利である。何故なら、人倫は私の本質であり、そうしたあり方をすべきものである、これは義務となる、しかし、私がそのあり方であり、人倫は私において実現する、それ故それは私の権利でもあるからだ。私には人倫なくしてはいかなる支柱もない。

<1.法権利の喪失>

 奴隷は権利をもたない故に義務をもたない。

<2.権利と義務の相違>

 人倫的実体をとうして見れば権利と義務は同一である。しかし、また両者は区別される。私は様々な権利と義務をもつ、国民は別の権利と義務をもつ。父は子とは別の権利と義務をもつ。この区別は家族、国家のような特殊の組織に関してあるのだが、普遍的なものから見れば、権利と義務はひとしい。それらの相違はそれらの普遍なるものを前提としている。

<3.内容の相違>

 ある個別的な義務を私は権利として取り戻すのだが、もちろん権利と義務それぞれの内容は異なっている。たとえば、公租公課の義務を返してもらうのではない、私はその代わりに財産の保全やその他おおくの私の権利がかかわることを得るのである。内容は異なるが価値が同じものを受け取るのである。この価値が不等になると偽りの関係が生ずる。

<4.展開の道筋を展望:§§156.157>
§156<家族という現実の精神と民族という現実の精神>

 概念と一体となった自覚的自己意識を包含するものとして、人倫の実体は家族と民族という現実の精神である。

§157<区分>

 この理念(人倫の理念)の概念は精神として、つまりおのれを知るものであると同時に現実のものであるものとしてのみ存在する、なぜなら精神はそれ自身の客観化であり、その諸契機の形式による運動だから。

<1.人倫的実体の特殊化>

 理念の特殊化は概念の規定のみに基づく。普遍に至るため、概念規定が区別、つまり本質的進展をなす。人倫の実体はもろもろの形式において全体でありつづけ、もろもろの形式は仮象にすぎない。全体がもろもろの形式を現実の理念とするのである。

<2.家族>

 A)第一には、直接的あるいは自然的人倫の精神、家族である。人倫の精神が自然の意志の性質であり、自然的なものが人倫の精神となる。これまでのように欲望や衝動ではなく、ここでは形式のみが自然的なものであるにすぎない、人倫が内容なのである。

<3.市民社会>

 B)この実体性(家族)が統一を失い、分裂と相関の立場に移ると、市民社会となる。市民社会は、必要と、手段としての法制度と、外的国家と言える特殊な関心と共同の関心のための外的秩序による、自立した諸個人による結びつきである。

<a.反省の段階>

 自立し個別であることがここ(市民社会)では要の規定だ。それは自然的人倫の精神が内に向かうこと、反省の行為であり、法的人格、自由の抽象的契機の領域である。

<b.法と道徳の重視>

 ここに法と個々の個人の内なる存在である道徳が帰属する。実体は退き根底となって、無意識の必然、内的紐帯となっている。

<c.普遍性の現れ>

 この実体は個別であることにおいても反省される。個別であることにおける実体的統一は見かけにすぎず、形式的普遍性として現れる。

<d.外的国家>

 上述の普遍性は特殊なものを目的とする普遍性だ。これは外的国家であり、個人をその所有に関し庇護する目的をもつ。他の個人との相互作用によってのみ得られる満足のための手段を提示し、国家は欲求の手段となる。

<e.悟性(抽象的知性)の段階>

 これが第二の段階で、悟性の段階だ。ここでは悟性的理解を基にして個人が他者としてのみ他者に関係する。それによって私の欲求の満足に普遍性の形式が与えられる。

<f.人間形成(Bildung)>

 このことで私は他人に結びつけられる。これは一般に経験できる事だ。すべての自分の特殊なものに普遍的あり方の形式をあたえることのできるひとを、ひとは人間形成されたひとと呼ぶ。

<g.この段階の必然性>

 人間形成の段階は第三のもの(国家)にとっても不可欠なのである。自然的なものは悟性(抽象的知性)に貫かれねばならない。内的であること、自覚的であること、これはその中で自然的なものが純化され、思考の形式が獲得される礼拝堂である。

<4.国家>

 C)外的国家は実体的普遍とこの普遍へ捧げられた公的生活の目的と現実へとおのれを取り戻し総括される、つまり国家制度へと。

<a.公的生活>

 ここ(国家)では普遍なるもの自身が目的だ。それはひとびとの合一の意識である。目的はただ共同的にあるのではなく、普遍的に自覚されている。

<b.家族と市民社会の統一としての国家制度>

 国家制度は先行するふたつの段階の同一である。ここでは合一(家族の段階)が目的として自覚されるが、同時に諸個人は法的人格であり、自分の関心を充足し、自立(市民社会の段階)している。しかし、国家に於いてこの自立は合一として意識され、求められるのである。

<c.国家の目的としての普遍性>

 国家の目的はそれ故洗練された(gebildeter)目的として即現前し、意識されたものとしての普遍性の形式において求められる。この普遍性は国家において法律の形式をもつ、個人は法律に依存し、そしてこの普遍性の形式は人間形成によりもたらされる。



(中澤)

*****************つづく*****************