第三部 国家
§257<人倫の理念が国家として現実にあること>
国家は人倫の理念の現実態である。国家は習俗において直接に現出し、個人の自己意識において媒介されて現出する。個人は国家の中で実体的自由を得る。
<§257A:家族の人倫と民族の人倫>
家族の守り神は内的な下位の神々である。家族では感情そのもの、愛、感情のあり方の人倫がある。それに対し、政治的な徳は、絶対であると考えられた目的を求めることである。それは、民族精神、アテナであり、知られる、意志された神的なものである。
§258<絶対不動の究極目的である国家>
国家は実体的意志の現実態なのであり、普遍性へと高められた自己意識の中にその現実態をもち、全きあり方をした理性的なるものである。
<1.自由の実現としての国家>
国家の全きすがたは人倫的全体であり、理性の実現である。自由が現実にあるということが理性の絶対目的だ。国家は世界において存続し、世界において現実化する、意識の中の精神である。
<2.自由は個人の自己理解に左右されない>
自由に関しては、個人を出発点とするのではなく、自己意識の本質から始めなければならない。ひとがそれを知ろうと知るまいと、自己意識の本質は自由なのである。国家があるということは、この世界における神の歩みである。国家を存在たらしめるのは意志としてみずからを実現する理性なのだ。
<3.”現実の神”としての国家という理念>
個別の国家や制度を念頭においてはならない。理念、この現実の神自体を考察しなければならない。あらゆる国家は、その国家が国家としての国家、つまりキリスト教の、ヨーロッパの国家であるという本質をその中に備えているなら、たとえあれやこれやの欠陥が認識されるにしても、国家のすべての本質的要素を含むのである。
<4.現在する国家の虚弱性と国家の理念の積極的評価の難しさ>
国家は世界の中にある、それと同時に恣意と偶然と錯誤の領域にある。悪しき意図があらゆる面においてそれを損なうこともありえる。最も憎むべき人間や犯罪者もそれでもなお人間なのであり、病者や障害者は命ある人間、欠損とはかかわりなく命というこの肯定的なものなのである。そして、この肯定的なものが問題なのである。
欠陥を認識するのは簡単だ、それに反し、現実の中にある肯定的なものを認識するのは難しい。
非難に熱中するならひとの虚栄心は容易に満足される。
§259<第三章の区分>
国家の理念の三項
a)国家の理念は直接的現実態であり、かつ自己関係にある有機体、制度あるいは国内法としての個体の国家である。
b)さらに、個々の国家の他国との関係に移行する。−−−国際法。
c)そして、個々の国家に対する類的普遍の理念であり、絶対の威力である。つまり、世界史の過程の中でその現実を自らに与える精神である。
いくつかの国家が団結し他国を裁く場合もあるが、これは永久平和の制約と同様、相対的なものである。絶対的裁定者は全き姿となった精神なのであり、それは現実の類と理解される世界史において表現されるのだ。
(中澤)