<翻訳『哲学史講義』成立事情>



  翻訳『哲学史講義』(全三巻)をめぐって

▼「岩波ヘーゲル」から遠く離れて▲

 「ヘーゲルを読む会」でドイツ語版『哲学史講義』を読むように

なったのは一九八五年のことだが、そのときは、この本の日本語訳

に手を染めようなどとはまったく思っていなかった。すでに岩波書

店から何分冊にもなる翻訳がでていることを知っていたが、それも

手にとって見たことすらなく、だれかがわたしたちの会にもってき

て、「これ、原文と合っていない」とぼやくのを聞いて、わたした

ちのテキスト(ズールカンプ版)とちがう短縮版を底本にしている

ことにはじめて気づいたほどだった。

 そのころは河出書房新社に勤めていた友人の編集者高木有さん

に、「ヘーゲルの新訳を出そうよ」と話をもちかけたのは、『哲学史

講義』の読書会がはじまってすでに五年も経過したころのことで、

ドイツ語講読はもう中巻にさしかかっていた。みんなでああでもな

い、こうでもない、とあちこち引っかかりながら丁寧に読んできた

のだから、翻訳もそう苦労しないで進められるだろう、というのが

当初の心づもりだった。

 が、そうはいかなかった。

 訳書上巻の「訳者まえがき」にも書いたように、専門家にしか意

味の通じない訳語(「思弁」「悟性」「人倫」「即自」など)を使わな

いこと、ドイツ語の単語と日本語の単語との一対一の対応にこだわ

らないこと、文体を「です」「ます」体にすること、この三つが最

初からの大方針だったが、それをつらぬきつつ、読みやすくわかり

やすい訳文を作りあげることは、やはり容易なことではなかった。

▼Verstandは「悟性」ではない▲

 普通に「悟性」と訳される“Verstand”を例にとろう。広く知的

な働きを示すことばとしてこれが使われているときは、日本語とし

て「悟性」よりはこなれている 「知性」という訳語を当てたが、

“Verstand″と“Vernuft″とが対比されて用いられる所では「知性」

と「理性」ではどうにもならないから、「分析的思考」の訳語を当て

て綜合的・体系的な「理性」とのちがいを際立たせた。もっと軽い

意味で使われているときは、「理解する」「わかる」といった訳

を当てた(ちなみに、目下翻訳中の『精神現象学』では、力や法則

を認識の対象とする“Verstand″を「科学的思考」と訳した)。こう

いう訳しわけをすると、ヘーゲルが“Verstand”というドイツ語を

どれだけのふくみをもって使っているのかはわからなくなるが、日

本語に“Verstand″と大きく重なる単語がない以上、一対一対応は

無理に求めないほうがよい、というのが、あれこれやってみたすえ

のわたしの結論だった。

 「です」「ます」調で調子をととのえるのにも苦労した。

 わたしは塾の通信や私信などには「です」「ます」調を使っては

いるが、哲学論文を「です」「ます」調で書いたことはない。また、

『哲学史講義』が学生の講義ノートをもとに編集されているからと

いって、それを読んで、「です」「ます」風のくだけた講義口調をそ

こに読みとることができるわけでもない。最初のころは油断すると

つい文末が「である」になったり「なのだ」になったりして、はっ

としたことも何回かあった。

 それではいけない。文末が「である」や「なのだ」になるのは、

それまでの文が「である」や「なのだ」を要求するような論文調に

なっているということで、文末を「です」や「ます」に変えるだけ

ではおさまらない。文頭から、あるいは、前文や前々文から調子を

変えていかねばならない。というわけで、最初の三百枚ぐらいの訳

文はなんども前にもどつて調子をととのえる必要があった。その部

分については、まわりの何人かの人にも読んでもらって感想や意見

を求めた。編集者の高木さん、田中優子さんからも、文の流れかた、

つながりかた、おさまりかたについて、こまかい注文が寄せられた。

「です」「ます」調ではどうしても全体がまのびした感じになりがち

で、それを防ぐべく、適宜、「である」「のだ」を入れるようにもし

たが、その挿入の呼吸がわかってきたあたりから、翻訳もようやく

なめらかに進むようになつた。

 上巻の刊行が一九九二年一月、ついで中巻が一九九二年十月、下

巻が一九九三年八月と、三年に満たぬ期間に四百字詰原稿用紙三千

枚を超える大作を訳了したことになるが、それだけ早く訳せたのは、

いうまでもなく、「ヘーゲルを読む会」での丹念なドイツ語読みが

支えとなつたからであった。

▼存外な好評▲

 哲学アカデミズムとは遠く離れた位置にある人間が、従来の哲学

書翻訳の常識に反した型破りの翻訳書を出したのだから、アカデミ

ズムを中心に批判や非難の声があがるだろうと覚悟していたのだ

が、こちらが拍子ぬけするほどにそうした声は聞こえてこなかった。

かわりに、上巻の出た直後から画期的な新訳だというほめことばを

あちこちからいただいて、これは本当にうれしかった。なかで一番

心に残っているのは、雑誌「日本文学」に執った西郷信綱の書評である。

いま、その一節を引く。

  店頭でこの本を手にし、ぱらばらめくっただけて、これはどう

 も類書と違うぞというのがぴんときた。訳者のことばを借りれば、

 「日本の哲学系統の翻訳書の多くが、原文にひきずられることの

 多い、きわめて生硬かつ不自然なもの」になつている、「そうい

 う通弊を避けるべく、この訳書では、ドイツ語を念頭におくこと

 なく、日本語として普通に読んでヘーゲルのいいたいことが理解

 できるのを主眼とした。ヘーゲルのえがきだす思想のドラマを、

 日本語をとおしてたのしんでもらいたい。それが訳者としてのな

 によりのわがいである」と。じじつ、これは掛値なしに、読み

 始めるや否やそこにえがき出されている、あるいはやがてえがき

 出されてくるであろう「思想のドラマを、日本語をとおしてたの

 し」ませてくれる本といって過言ではない。

  この著作は「ヘーゲル全集」の一冊として昭和九年に初訳が出

 ており、私はそれを戦後になって読んでいる。念のため取り出し

 てみたら、右の引用箇所に太々と赤線が引いてあるから、やはり

 それなりの感銘をうけたのだろう。ところが二つの訳を比べてみ

 るとまさに天地雲泥の差で、苦心の訳ながら旧訳は今ではほとん

 ど日本語として通じないていものである事実に、改めてびつくり

 したのである。日本語もとにかく熟成しっつあるしるしだろうが、

 それにしても長谷川氏のかの新訳の日本語は、たんに分かりやす

 いだけでなく、新たな輝きを放射している。それはその訳文が、

 原文のドイツ語にもとづきながらドイツ語を離れ、日本語で考え

 るという域に達しているからだと思う。

 西郷信綱は、面識はないが、著作を通してその識見と文学的感受

性と思考の論理性にはつねづね感服している文学者だったから、こ

のほめことばは身にあまるおもいがした。書評を目にしたのは中巻

の刊行後しばらくしてからのことだったが、以後、下巻を訳したり、

さらには『歴史哲学講義』『美学講義』と訳していく途上で、調子

が出なかったり、気がむかなかったりしたとき、この書評を読みか

えすときまって元気が出てくるのだった。

 ほかにも好意的な書評にいくつも接し、また、高価で堅い本なが

ら、その割りにはよく売れているのを知って、自分の翻訳が時宜を

得たものであることを納得できた。

▼あくなき改訂▲

 さて、ドイツ語講読にかえっていうと、仝三巻の翻訳をおえた時

点で、講読は中巻をすぐにもおわるという所にさしかかっていたか

ら、下巻の講読は、ドイツ語をおいかけながらすでに活字になつた

訳文を再点検するという意味をももっていた。見ていくと、あきら

かな読みちがい、読みおとしが何ページに一回はでてくる。万全を

期したつもりの翻訳でそうなのだ。はじめは、まちがいに気づくた

びに顔が赤くなる思いだったが、同じ経験がなんども重なって、自

分の注意力の限界を見せつけられる気がして、ならば、恥ずかしが

らないでどんどん見つけ、どんどん改訂するに如くはない、と思う

ようになった。さいわい、下巻も何回か増刷の機会があって、その

たびに直しを入れることができている。

 翻訳をおえると講読の興味が多少とも薄れるかもしれない、とい

う危惧がないではなかったが、それはまったくの杷憂だった。翻訳

をする前でも、した後でも、ヘーゲルのドイツ語を追いかけること

は同じように楽しいし、それをもとにさまざまな問題意識をぶつけ

あい、意見や異見をいいあうのも同じように楽しい。思えば、それ

が当然のことで、翻訳は、なにはともあれ自分の書斎に閉じこもっての

孤独な作業だが、「ヘーゲルを読む会」での講読は円卓を囲んでの共同

作業なのだ。作業の質がおのずから異なるというべきなのだ。

▼そして『精神現象学』へ▲

 『哲学史講義』講読の後に予定される『精神現象学』の講読でも、

どうやら講読と翻訳が交錯する気配である。苦労も少なくなかろう

が、講読にも翻訳にも、苦労に見合うだけの、いや、苦労をはるか

に上まわる楽しみを見いだしたく思う。