第一章 家族
§158<直接的実体としての精神>
家族は精神の直接的実体性として感情的一致、つまり愛情をその規定とする。
<1.感情と直観>
感情は個人の最初の自然的あり方である。精神とは感じるものであるゆえに、感情とともに直ちに意識が現れる。即ち、感情は主観と対象へ分割される。そのように、直観が第一のあり方なのではなく、感情が第一のあり方なのである。何故なら、感情の内には同時に内面性があるが、直観は内的なのではなく、私は直観においては対象について知るのだからである。
感情においては直接に内的なものがあり、直観においては、精神は外的なものとしての対象と関係しなければならない。
感情においても直観においても私は拘束されている。眼を転じても、私が眼にするものは同時に私に与えられたものであり、そこには私の自由はない。同じく、感情では自然的仕方で私は拘束され自由ではない。直観においてのみ解放ははじまる、私は私から対象を放り出すのだから。
<2.愛>
愛は感情である。
@私は欠如感、不完全感をもつ。私が自立していること、このことは愛においては欠陥である。私は愛の中ではこの自立を否定する。
A私はこの否定において私を得、保持し、他の人格の中に私を獲得する。そのように、私は他の人格の中に、私が他の人格にとって大切なものであるという直観や意識をもつ。私だけではない、他の人格もまた、私において他の人格が大切にされているという意識をもつ。それぞれの人格が他の人格の中にこの合一の意識をもつ。
愛はその限りで途方もなく大きな矛盾だ。抽象的理解はそれを解くことが出来ない。点となった自己意識よりもさらに頑なで、干からびたどのようなものがあるだろうか。この限りない乾きは柔和にされ、和らげられて、ふたつの自己意識は一つにされる。愛が矛盾の解決である。理性や概念は矛盾の思考による解決である。
<3.愛の対象としての個人>
愛は矛盾の解決であり、矛盾の現出である。
この解決とは人倫的合一だ。家族におけるこの人倫的解決は感情の形式をもつ。ここ(家族)においては人倫は自然的なあり方をしている。私は自然的な自我として、私の完全な特殊性にもとづいている。
理性や、理性的な状態たる国家ではひとの功労が普遍的仕方にもとづいて問われるのだが、愛においては特殊な主観である《このひと》としてのひとが大事にされるのだ。
<4.感情の対象の偶然性>
感情が正当なものかどうかは内容による。感情という形式は何ら基準にならない。内容が問題なのであり、感受性や感情は単なる自然的形式にすぎない。
§159<法を担うものとしての家族の成員>
家族という実体では、特殊性の放棄が主要規定である。家族の分解を前提としてのみ法は立ち現れることが出来る。家族の成員が自立的人格として成長し、家族を構成する特定の要素を分離し、外的側面(財産、扶養、教育費等)によってのみ獲得する限りにおいて、法は立ち現れる。
<1.その一致から外へ出ることに対抗する家族の法(権利)>
個人が家族の成員としてもつ法(権利)は自立した人格としてではなく、家族そのものの法(権利)、つまり合一性の原理である。この原理は一致に現れる分離に対して主張される。
男と女が互いを見捨てるとき、離れていこうとする配偶者に対してもつ法(権利)は、人格としての法(権利)ではなく、家族そのもののこの法(権利)である。
<2.この(家族の)法の限界>
愛は法的に要求できるものではない。愛を捨てる配偶者に対して主張され得るのは愛の履行ではなく、内面的ではない、外的務めの履行に関する法(権利)である。
法は一方では合一を内容とし、原理とするが、その原理の存在には、他方、愛という主観的なものが必要であり、愛、それは認知されるものなのだが、この愛に対して法は主張できない。
結婚における法は主観的で自然的なものを認める愛にその限界をもつ。外的なものに対する法(権利)の仕方で合一が要求されるというのが家族における法の一面である。
<3.家族関係の放棄についての法の規準化>
家族における法の他面は、法が家族の分離を可能なものとして規定し得、かつそうしなければならないということである。財産分与、扶養、教育費等がこの分離と家族関係の放棄に関連している。
§160<区分>
家族は三つの側面で完成される。
a)結婚という家族の直接的概念形態(基礎)
b)所有や財貨とそれらの配慮(外的存在)
c)子供の教育と家族の解体(成員の自立)
(中澤)