A.結婚
<17世紀と18世紀の合理的自然法における結婚>
自然法は法とは何かを問い、自然によって法であるものとの答えを与え、生命性の側面を際立たせた。
そのようにして、結婚についてのまったく軽率な見方が現れる。曰く、結婚は性的関係である。この見方からは結婚の排他性や継続、一夫一婦制は説明できない。
他の側面では、曰く、結婚は市民的契約である。この見方はカントにも現れるが、物としての人格の関係、その相互的使用が契約されるのである。これは、単に感情面からしてすでに不愉快なものであるように思える。
三番目の見方は結婚は愛においてのみ成り立つというものである。しかし、愛の形式はまだ結婚の形式ではない。
愛そのものは感情的であり、主観的であって、あらゆる種類の偶然なもの、一時の気まぐれや思いつき等が現れる。
人倫的なものはその存在の中に偶然性の形態をもたない。人倫としての愛は一時的な偶然である気まぐれより高い位置に置かれなければならない。
結婚は愛であるが、それは法的に行われた愛である。愛の存在の法的要素がここでは主に規定される。
<1.人倫的基礎:§§161−164>
§16<精神的統一としての性的関係>
結婚は直接的な人倫の関係として、ふたつの要素をもっている。
@類の現実と継続という自然的生命の要素。
A潜在的であり、同時にその出現においては外在的である自然的性の統一が、自己意識の中で精神的なもの、自己意識の愛へ変容するという要素。
<1.継続としての類>
交尾では類*そのものが駆り立て、活動しているのであり、類が明瞭に現われる。生物は自立存在を放棄し、他の生物の(自身との)同一性となる。
産み出された同一性は子供である。多くの生き物では、このことが至上のことであり、とくに虚弱な生物は生殖の後すぐ死ぬ。個体に要求されているのは、類を現出させ維持することだ。
しかし、産み出されるものは再び個体である。なぜなら、自然では類そのものは現出せず、類の現出は普遍そのものが現出する場である意識においてのみあるからだ。自然では、類は繰り返し個別性へと低落する。
<2.自然的統一と精神的統一>
何故、結婚は本質的に異なる性の関係なのかという問いがある。
それは生物におけるこの合一が精神におけると同様潜在したままではなく明瞭に定立されたもの(eine gesetzte*1<Einigkeit> istだからである。異なった性*2があるゆえに一なるものとして明確化されうるのだ(kann gesetzt werden)。
さらに、第二に、両性のこの差異は自然的なものにおける自然の差異でありえるのみだ。
性が自然的に異なっているのは概念から帰結する必然である。なぜならこの区別は自然的個や生命に属するのであり、生命の内で類に関する区別に関連しているからである。
類を土台にした、自分の種の他なるものに対する区別は普遍的区別であろう、この区別は自らを<私>として置くことの出きるもののみに可能である。つまり、思考が必要である。
自然的統一は性の自然的区別を前提する。自然的統一は生命の規定であり、このことが直接的関係としての愛の一契機である。
<3.自然の合一が精神の合一の下位におかれること>
この関係は精神同士の関係なのだから、関係はまた精神の関係でもある。ふたつの有様(自然の関係と精神の関係)は不可避であり等しく本質的で、互いに対し特定の関係をもつ。
ふたつは互いに等価値で並び立つのではない。一方は他方に従属させられなければならない。自然の側面は結果として現われ、精神的人倫の合一に基づくものとして生ずるというように承認される。
<4.結婚の原理としての愛>
なんとなく愛が結婚の原理とされるとしても、愛の中には多くの要素がある。財産の均等、支えあい、子づくり、これらのすべて規定が結婚に含まれる。この意味で、互いの関係が明瞭ではないのであるが、家族と愛は区別される。
<5.形式的で法的な結婚の定義(Rph§164A1)>
あれやこれやを結婚の根本規定を出来たとしても、常に一面を見ているに過ぎない。何故なら一体となること自体が根本規定だからだ。たとえば、子づくりがしばしば根本規定とされる。しかし、子供をつくるのはある結婚では重要なことであっても、それは結婚自体には関係しない。子の生まれる見込みのない年齢のひとの間にも結婚はあるからである。
§162<自由の行為としての婚姻の締結>
結婚の主観的出発点は両人格の個別の好みと親の側の事前の配慮や用意である。、客観的出発点は両人格の自由な同意、ひとつの人格となって、あの合一の中で、自然的な個々の人格性を放棄すことである。この合一は放棄の観点では自己制限であるとしても、その実体的意識の獲得からは両者の解放である。
<1.個人的意志の放棄と共同意志の建設としての結婚の締結>
両人格はひとつの意志であるのをのぞみ、それぞれの個別的意志は共同意志の表明と見なされる。
<2.両親による配偶者の選び>
親が子を結婚させる事は、事情の考慮や利害や都合に基づく冷たい手はずのように見られる。しかし、実際は、親は子の幸福を見据えているのだし、通例、子より親のほうがこのことをよく理解しているのだ。結婚にとり本質的である愛が締め出されていると思われている。しかしながら、このようなお膳立てにおいても愛がまったく締め出されているわけではない。
<3.配偶者の選び>
重要なのは、少女が男を愛するのは、男が自分の夫になるからということである。少女は夫人としてはじめて自分の真の価値を得るのだということを意識している。男が自分の真の生き方Bestimmungをあたえるのである。男は結婚の他にも自立性をもち、その生き方は結婚で完全に満たされるわけではない。
<Rph(法哲学)§162 A 2>
(中澤)
********** つづく **********