ケルゼン「正当性とは何か?」要約
Hans Kelsen"Was ist Gerechtigkeit?"Reclam055

T 利害もしくは価値−衝突を解決する問題としての正当性

 1.正当性とは何であるか?正当であるとは、行動が、正当と見なされる秩序に相応することである。すべての人を満足させる仕方で秩序が人間の行動を制御し、すべての人はこの秩序に幸福をみつける。正当とは社会的幸福、社会の秩序を保証する幸福である。問いはこれで答えられたのではない、ただずらされただけだ。何故なら、幸福とは何なのか?

 2.ひとの幸福と他人の幸福の衝突は不可避だ。一人の子どもをめぐって二人の女が争ったとき、ソロモンは「この子を二つにに分けなさい」と言ったが、子の命を救うため嘆願を取り下げる方に、子を与えるつもりだった。しかし、十分ありえることだが、両方が子の命を思い嘆願を取り下げる場合は、ソロモンの裁可は成り立たないし、一方に子を与えたとしたら、他方を不幸にするのだから正当なものではない。われわれの幸福はいかなる社会的秩序も保証し得ない欲求の満足にしばしば拠っている。見栄えが良いからと容姿で将軍に選ばれたら、選にもれた者は公正だとは考えないだろう。「何故に自然は私の容姿を魅力あるものにしなかったのだ」と彼は言うであろう。正当性の立場からは、自然は公正ではないと言わねばならぬ。いかなる社会的秩序も自然の不公正を調停出来ない。

 3.ベンサムの最大多数の最大幸福は主観的価値の幸福には適用できない。社会秩序が保証する幸福は客観的ー集合的意味での幸福である。社会の権威が認めるそうした衣食住の欲求の満足は、満足ということばの根源の意味とは、完全にことなる。その根源の意味は、事柄のもっとも内的な本質にしたがうなら、非常に主観的なのだ。正当性の願望は、根本的で、深く人間の心に根さしている、何故なら、正当性の願望とは自分の主観的幸福を求める不滅の願望の表れにすぎないのだからである。

 4.幸福の理念は正当性の幸福という社会的範疇になるためにラディカルな意味の変更をこうむらねばならない。この変容は社会の原理となるために自由が引き受ければならないものに等しい。自由の理念はしばしば正当性の理念と同一視され、さらに、個人の自由を保証する社会が正当なものと見なされる。しかし、現実の自由、あらゆる種類の矯正からの自由は、あらゆる種類の社会秩序と不和であるのだから、自由の理念は支配からの自由という否定的意味を保有できない。自由の概念は支配の特殊な形式という意味をもたなければならない。つまり、少数の被支配者に対する多数による支配だ。無政府の自由はデモクラシーの自己規定へと変わる。同様に、正当性は全てのひとの個人的幸福を保証する原理から、秩序に服したひとびとから承認された利害を守る社会的秩序へと変わる。

 5.まさに利害の衝突が生じるところで正当性が問題となる。価値の問題とはまづ第一に価値衝突の問題である。この問題は合理的認識を用いて解決されうるものではない。その答えは常に感情的要因により決定される、主観的性格の判断である。つまり、判断する主観にとってのみ妥当し、この意味で相対的な判断である。

U 価値の序列

 6.個々人の命がもっとも価値あるものだというのはひとつの道徳的確信だ。この確信によって、兵役拒否者や死刑廃止論者がいる。他方、国の利害や名誉、あるいは国土や国民を守るために、戦場では殺人行為が求められ、重罪犯には死刑を科するのが正当なことに思える。このふたつの価値判断の間で合理・科学的に決定を下すのは不可能である。それを解決するのは、結局、われわれの感情や意志であって、知性ではない。

 7.別の例は、奴隷や強制収容所に囚われたひとが直面した問題である。逃走が不可能な状況での自殺は倫理的にゆるされるか、命と自由のどちらが重いのかとの問いは、また、再三議論されてきた問題であり、とくに古代の倫理学で大きな役割を果たした。この問題の答えも、金属は加熱により膨張するというような万人に認められる確定は出来ない。

 8.<計画経済>対<自由経済>、<平等な経済的保証>対<個人の自由>の問題は実験により検証のできない価値判断であり、個人的回答のみが可能なものだ。

 9.次は、医者が患者に死の告知をすべきかどうかの問題だ。誠実さと人間性のこの対立も合理ー科学的斟酌にそぐわない性質のものである。

 10.プラトンよれば統治者はあらゆるプロパガンダを使って、「正しい人は幸福であり、不正の人は不幸である」ということを、たとえ嘘であったとしても、市民の間に拡げる権利があるのだ。そうでなければ、だれも法に従わないだろうというのである。法律662b プラトンは、正義、つまり、ここでは統治者が正義とみるもの、すなわち、合法性を真実の上におく。しかし、たとえ真実であったとしても、統治者によるプロパガンダを道義にそむくとして拒否することを禁じる根拠はない。

 11.生命と自由、自由と平等、自由と保証、真実と合法性、誠実と人間性、個人と国家、これらについての答えは、魂の救済や死後の巡りあわせをこの世の財貨より重要視するキリスト教徒と魂の不死性を信じない唯物論者とでは異なる。また、自由が最高の価値であるリベラリズムを前提とするか、経済的保証が社会秩序の究極的目標となる社会主義を前提とするかで、同じ答えはありえない。解答は主観的で、それゆえ相対的な価値判断の性格を絶えず帯びるであろう。

V 人間の行動の正当化の問題としての正当性

 12.価値判断が主観的で、また互いに矛盾する場合がありうるという事実は、各個人が独自の価値システムをもつことを意味するのではない。事実、多くの個人が価値判断において一致している。実際の価値システムは孤立した個人の恣意による創作物ではない。それは、家族、種族、部族、階層、職業等の既存の集団内で、特定の経済条件の下、互いにあたえる影響の結果である。あらゆる価値システムは、社会的現象であり、それを産み出した社会の性質に従い異なる。多数が価値判断を一にしている事実は決してこの価値判断の正しさの証明ではない。天動説を見よ。人間の文明史においては、一般的に承認された価値判断が、別の、多少ともそれに対立し、また同じく一般に承認される価値判断により押しのけられてきた。ex.原始社会の集団責任vs現代の個人責任原理、また個人責任原理が現在の法感情にそくしていること。

 13.自分の行動を正当化する要求、つまり良心をもっているのが人間の特徴である。人間は自分と社会に対し自分の行動を正当化しようと願う。事実上は主観の相対的な判断である良心が、通常、客観的価値をもつ主張として表現される。

 14.合理的正当化は手段と目的が原因と結果に符合する場合成立する。このことは、現在の社会科学の現状では不可能である。社会的現象の因果関係についての明瞭な洞察と、何らかの社会的目的を実現するための最良の手段を正確に明確化なさしめるに十分な経験を、われわれは手にしていないからだ。社会生活領域における実験はごく限られた範囲で適用されるに過ぎない。 ex.ある犯罪に死刑が妥当か否か。この合理的正当化がうまくいったときでも、その回答は良心が要求する行動の完璧な正当化を与えるものではない。目的は手段を正当化する、もしくは普通言われるように手段を浄化する。しかし、手段は目的を正当化しない。われわれの行動の決定的な正当化を表現するのは、もはやより高次の目的の手段とはならない、あの究極最上の目的の正当化である。

 15.究極の目的が正当化されない限りこの目的に対する手段も正当化されえない。デモクラシーは正当な国家形態である、なぜならこの国家形態は個人の自由を保障するのだから。しかし、それはつまり、デモクラシーが正当な国家形態であるのは個人の自由の確保が最高の目的であるという前提においてのみだ、ということである。個人の自由ではなく、経済的安定が最高の目的とされ、この安定がデモクラシーによっては確保されないなら、別の国家形態が正当なものとみなされなけれならない。他なる目的は他なる手段を必要とする。デモクラシーは相対的に正しい国家形態として正当化されるにすぎない。

 16.良心はわれわれが行動を究極の目的として正当化すること、われわれの行動が絶対的価値にふさわしいことを要求する。このような正当化は、しかし、合理的方法ではありえない。全ての合理的正当化はその本性上適切な手段としての正当化なのである。そして、究極の目的とはもはやそれ以上の目的に対する手段ではないものなのだ。一般的な絶対なものと個別の絶対的価値は人間理性の彼岸にある。                                                                                                                                                              

 17.しかし、この絶対的正当化の欲求は合理的吟味より強烈であるようにみえる。それ故人間は宗教と形而上学へ向かう。

W プラトンとイエス

 18.形而上学的タイプの古典的代弁者はプラトンである。正当性の問題がその哲学の中心問題だ。この問いの解決のためにイデア論が展開された。イデアは超越的な本質態であり、他世界、理知的な領域に存在し、感覚に囚われた人間には近づきえない。イデアは感覚世界において実現されるべきではあるが、完全には実現されえない絶対的価値を表している。全てのイデアが従属する最高のイデアは絶対善のイデアである。正当性のイデアも絶対善のイデアからその妥当性をえるのである。第7書簡でプラトンは次のようにはっきりと述べている、絶対善については概念による認識はありえず、一種の観照がありえるのみであり、その観照は神の恩寵によりわずかな人間に与えられる神秘的体験を通じて生ずる、また、この神秘的体験を人間の言語能力による言葉によって伝達するのは不可能だと。だから、正当性の問いの回答はありえない。なぜなら、正当性は神がわずかな選ばれた者にゆだねる神秘なのであって、彼らの秘密でありつづけるのである。

 19.「わたしはあなたがたに言う、敵を愛し、迫害する者のために祈れ」Matth5:44キリストは旧約の合理主義的方式「目には目を、歯には歯を」の応報の原理を退け、新しい、真なる正当性として愛の原理を告示する。しかし、敵を愛することは人間の本性に適うものではなく、社会的現実において考えられうる秩序を超えている。しかも、キリストは人間の愛情や命さえきびしく拒否する。「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとの来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」Lk14:27キリストの愛は人間の愛ではなく、「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせる」Matth5:45天にいるキリストの父の愛である。この愛の特異なところは、愛は最後の審判−人間が抱く最深のおそれ<神へのおそれ>−と一体のものとして受け入れられなければならないことである。この世の知恵は神においてはおろかさである。合理−論理的認識は隠れた神の叡智の中に含まれている神の正当性への道ではない。この正義は愛によって働く信仰をとおして神からひとに与えられるのだ。パウロは言う「人知をはるかに超えたキリストの愛を知って、神に満ちているものすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る」Eph3:19と。キリストの愛は知性的認識の彼岸にあり、神秘、おおくの信仰の神秘のひとつである。

X 正当性の空虚な規定

 20.正当性とは<各人に彼の分を与える>ことだという世に知られたことばは古代ギリシャの七賢人の中の一人に遡る。この決り文句は多くの傑出した思想家、とくに法哲学者によって採用された。このことばがまったく空虚であるのはすぐ見て取れる。なぜなら、本来あるべき問い、各人の持分と見なされるのは何かが答えられていないからである。この決り文句は彼の持分がすでに決定している前提で適用できるのである。持分を決めているのは、習慣や立法の仕方で、道徳や法の秩序として樹立されている社会の実定的仕組みなのだ。この決り文句は、資本主義であろうが、社会主義であろうが、民主主義でも、独裁専制でも、すべての体制の弁護の用をなす。だから、このことばは広く受け入れられたといえる。

 21.同じことは<善には善を、悪には悪を>の応報の原則にもあてはまる。なぜなら、何が善で何が悪かは、自明なことではなく、民族と時代により非常に異なっているからである。この原則はすべての実定法的基準の根底となっていて、あらゆる法秩序は応報原理の実現として正当化することができる。しかし、正当性の問いとはつまるところ次のように問うことなのだ。法が不正と見なし、不正の結果としての禍(刑罰)によって反応した情況構成は本当に社会に対する禍であるのか、また法が不正の結果として確定した禍(刑罰)はふさわしものと見なせるのか。この問いに対し、応報の原則は全然答えではない。

 22.応報が同じものに同じものを返すことを意味する限り、応報は正当性の本質として主張される平等の原理の一変種である。この原理は人間の顔をもつものすべては本性上ひとしいとする仮定から出発しあらゆる人間を平等に扱うという要求に極まる。だが、現実に同じ人間は二人としていないのだから、この要求の考え得る意味は、社会体制は権利の付与と義務の負荷においてある区別を顧慮せずにおくことである。ただ、ある区別であって、すべての区別ではない。大人と子供、健常者と精神障害者を同じに扱うわけにはいかないからだ。どの区別が考慮され、どの区別が考慮されないのか、これが枢要な問題なのである。この問いに平等の原理は答えをもたない。実際にこの問題の解決関し現実の社会体制は多岐にわたっている。そのすべてが人間のある区別を無視する原則にかなっている。どの区別を顧みないかについて一致する社会体制はふたつとして存在しない。ある体制は男性のみに政治的権利を与える一方、別の体制は両性にそれを認めるが、男性のみに兵役を課す、また他の体制はこれらに何らの差別を設けない。これらすべてが平等の原理と矛盾しない。この原理は法秩序の内容形態を決定するにはあまりに空疎なのだ。

 23いわゆる法の前の平等という特別な原理が意味するのは、法を司る機関は適用される権利がもたらさない如何なる区別もなしてはならない、ということである。この原理は平等とほとんど関連しない。合法性の原理はあらゆる法秩序に本質的に内在している、そしてこの秩序が正当か不正かには無関心なのである。

 24平等の原理を労働量と労働生産の関係に適用すれば、同等の労働に労働生産の同等の割当てをという要求になる。これはマルクスによれば資本主義社会の基となる正当性である。だが、労働能力を考慮せず労働量のみを基準にすれば、それは不公正なものだ。真の正当性は<各人が能力に応じ労働し、各人に必要に応じ与える>である。計画経済では、生まれながらの資質に応じてそのひとにどれだけの労働が期待されるかを決定するのは、社会的権威に基づく共同体の然るべき機関である。必要は満たされるが、満たされるのは、中枢権力による計画経済が目的とする必要だけだ。<社会の富のあらゆる源泉が完全に湧き出す>としても、社会生産過程が計画的に顧慮しなければならない必要の選択も、またその満足の度合いも、全く個々人にゆだねられるわけにはいかない。そのように共産主義的正当性もまた特定の、任意のではないが、現実的社会体制を前提にするのである。集団の利害と個々人の利害が完全に一致し、そこに制約なき個人の自由が成立するなどというのは、ユートピア的空想なのだ。

 25さらに、黄金律と呼ばれる原則が平等原理の応用のひとつといえる。<君が他人から被りたくないことを他人におこなってはならない><他人に苦痛をあたえてはならない、他人によろこびをもたらせ>しかし、あるひとには喜びであるものが、別のひとには苦痛になる場合がたびたび生じる。また、黄金律を犯した者をどう扱うか?だれも罰せられるのはのぞまない。だから、黄金律に従えば犯罪者を処罰する事は出来ない。自分は賢く、真実を見抜け嘘から身を守れると思っているひとにうそをつくことを、だれも反対しないかもしれない。黄金律を言葉どおりに真に受ければ道徳と法はなくなる。もちろんそのようなことではなく、黄金律によって道徳と法は固持されなければならない。その際、君がのぞまないという主観的基準を立てることは出来ない。主観的基準はすべての社会体制と一致するわけではないからである。ようするに、<君は他者が君に対して行動すべき、つまり客観的秩序に従って行動すべきその仕方で、他者に対し行動しなければならない>のである。如何に行動すべきか?の正当性についての問いの答えは、黄金律により与えられるのだはなく、その前提となっている。現実の道徳と実定法が前提とされているのだ。

Y カント

 26<社会秩序の原則的基準と一致して行動せよ>社会秩序は原則的基準から成り立ち、原則的基準の概念にはひとがそれに従って行動すべきということが含まれているのだから、これは同義反復の公式である。この客観的秩序として解釈された黄金律をカントは定言命法の有名な定式として提起した。この定言命法はカントの道徳哲学の本質的成果であり、正当性問題へのカントの回答なのである。定言命法は言う<汝はそれが普遍的法則となることをのぞみ得る格率に従って行動せよ>。すべての人間にとっての義務となるべき基準に規定された行動は正しい。しかし、この基準とは何なのか、この問いへ定言命法は答えない。

 27ントが説明を試みている具体例を研究すれば、定言命法は道徳伝統やカントの生きた時代の実定法の規則であることが確認されるに違いない。その規則は定言命法から演繹されたのではない、何故ならこの空虚な文句からは何事も演繹できないからである。あらゆる任意の社会体制の規則が定言命法と合致する。それが言わんとするのは、まさに人は一般的基準と一体となって行動すべきということだから。定言命法はあらゆる体制の正当化に役立つのである。

Z アリストテレス

 28.幾何学においてある直線の両端からその中間点が見出されるように、徳は過多と過少の中間である、たとえば、勇気の徳は臆病の悪徳と蛮勇の悪徳の中間であるとするのが、アリストテレスの有名な中庸の理論だ。しかし、よく考えてほしい、中間点を見出せるのは、両端末点を前提したうえである。悪徳の烙印を押しているのは中庸の理論ではなく、その時代の道徳伝統なのである。中庸の理論の擬似学問的主張は、その根拠として、現実の道徳意識、実定法、既成の社会秩序から悪徳の規定をもらわなければならない。本質的にはトートロジーである中庸論は徹底的に保守であり、現存社会体制を固持する。

 29.中庸の公式のトートロジー的性格はそれの正当の徳への適用において顕著に表れる。正当な行動とは不正を行うことと不正をこうむることの中間である、何故なら前者は過多を得、後者は過少を得るからだとアリストテレスは説く。だが、行う不正とこうむる不正はまったく同一のものである。そして、不正とは何であるかは、中庸の公式によって答えられることはない。

[ 自然法

 30.自然法によれば、自然、あるいは理性を付与された存在としての人間の本性(自然)に基づき、人間的関係はまったく正当に統御されるのである。自然を神の被造物であるとみるなら、自然法は神の意志の表現だ。その場合、自然法は形而上学的性格をもつ。しかし、神の意志を考慮せずに人間理性を捉えるなら、自然法は合理的衣装をまとって現れる。自然法の合理的表現は根拠のないものだ。自然は因果で結ばれた諸々の事実のシステムである。自然に意志はないし、自然が人間の特定の行動を指示することはありえない。事実(ある)から当為(べき)は推論できない。合理論による自然法は詭弁である。また、行動の基準を定めるのは人間の意志である。人間の理性は理解し記述するが、指図することはない。人間行動のための基準を、理性の中に見出そうとすることも、自然から得ようとすることも、ひとしく欺瞞なのだ。

 31.自然法の帰依者は互いに大変食い違った正当性の原理を人間理性に見出している。ロバート・フィルマーは絶対君主制が唯一自然で正当な国家形態とした。他方、ロックは民主主義こそ自然に従う、唯一正当なるものだと主張した。自然法論者の多くが、私有財産を、(封建及び資本主義)社会秩序の基盤として、自然と理性が人間に授けたとしている。しかし、18世紀に私有財産の破棄と共産主義的社会秩序の建設をめざした運動もまた自然法を拠り所とする。これらはみな同じ証明力である、つまり、まったく証明力を持たない。

\ 絶対主義と相対主義

 32.人間理性は相対的価値しか把握できないのである。絶対の正当性とは非合理的理想である。利害があり、利害の衝突がある。解決にはだだ二つの道しかない、一方を犠牲にするか、妥協するかだ。もし、社会の平和が非常に重要なものとして前提されるなら、妥協による解決が正当なものとなるだろう。しかし、平和の正当性もまた、相対的なものであり、絶対の正当性ではない。

 33相対主義価値論の基礎となるか、もしくは相対主義価値論から演繹される道徳の原理は寛容の原理である。その要求は、見解を分かちあわないとしても、あるいはむしろ分かちあわないからこそ、他者の宗教観・政治観を好意的に理解し、それゆえに彼らの平和的発言を妨げてはならない、ということである。自明なことであるが、相対主義世界観からは絶対的寛容の正義は生じない。暴力の行使を禁ずる事と見解の平和的な発表を制限しない事によって、現実の法秩序がその枠内において法に従う者たちに平和を保証することでこそ、寛容は存在する。寛容は思想の自由を意味する。非常に倫理的な理想は、その信奉者の狭量で評判を落とす。スペインの異端審問がキリスト教を護るために火をつけた薪の山により燃やされたのは異端者の身体だけではない、キリストの有名な教えのひとつもまた犠牲となったのだ:「汝人を裁くなかれ、汝裁かれざるがためなり」Matth.Z.1 もし民主主義が正しい国家形態であるとするなら、それは、民主主義が自由を意味するからである。そして、自由は寛容を意味する。しかし、民主主義が反民主主義の運動に対してみずからを護らなければならないとき、民主主義は寛容であり続けられるだろうか?それは出来るのだ!反民主主義の平和的発言を抑制しないという程度においてである。まさにこのような寛容が民主主義と独裁政治をわけるのである。われわれがこの区別を維持する限りにおいてのみ、専制政治を拒否し、われわれの民主主義的国家を誇る資格があるのだ。しかし、民主主義も含めあらゆる統治にはそれを暴力で打倒しようとする試みを抑制し、然るべき手段で防ぐ権利がある。この権利の行使は民主主義の原理にも寛容の原理にも矛盾しない。ある種の観念の流布と革命的転覆の準備の間に明確な境界線を引くのは往々にして難しい。この境界線を見出す可能性に民主主義の維持はかかっているのである。このような境界付けは何らかの危険を本質的に含んでいるかも知れない。だが、この危険を引き受けるのが民主主義の本質と栄光である。民主主義がこの危険に耐え得ないなら、それは保護される価値のないものなのである。

 34学問にもっとも好ましい体制は民主主義である。なぜなら、学問は外的に自由である場合、つまり政治的影響を受けない場合のみならず、内的にも自由である場合にもっとも発展するからである。学問の名においては如何なる教えも抑制されてはならない。学の魂は寛容であるのだから。実際、わたしは、あの人類の美しい夢、絶対の正当性がなんであるかは知らないし、言うことは出来ない。わたしは相対的正当性で満足するしかない、ただ、わたしにとって正当であるものだけを言うことが出来る。学問はわたしの職業であり、わたしの人生においてもっとも重要なものだ。だから、その正当性とは、学の進展と学とともに真理と誠実の進展をもたらす正当性である。すなわち、自由の正当性であり、平和の正当性であり、民主主義の正当性であり、寛容の正当性である。

(中澤)