ヘーゲルを読む会

A 国内法



<導入:個人の自由と国家権力の体制:§§260−270>

§260<国家における個人の自由の実現>

 国家とは自由が具体的に現実としてあることである。具体的自由とは、個別の人格とその特殊の関心が、その完全な展開と権利の承認を(家族と市民社会のシステムの中で)得ると同時に、一方でそれらが自ら自身で普遍の関心に移行して、他方で知と意志によって普遍なるものの関心を、しかもそれら自身の実体的精神として承認し、それを究極の目的に活動することである。

《既述の展開の結果》

 <家族と市民社会>と<国家>の中間項を形成するのは職能集団 Korporation である。

《2.以下の表現の課題》

 国家は普遍なるものそのものを目的としてもつ普遍なるものである。家族と市民社会は同時に国家の中にあり、国家が保護し、実現し、国家の関心へと導く。

《3.国家理念の完成としての現代国家》

 現代国家の原理は途方もなく強靭で深い。主観性の原理をその自立の究極へと完成させるとともに、実体の一体性へと引き戻し、その中に維持する。

 不完全な国家では、理念の特殊な規定が束縛をうけない自立性をもつことはない。

《4.市民社会における個人の解放》

 市民社会での推移は分離と外的必然としての統一への引き戻しである。個人は自分のために働くが、同時にまた他人のために働いている。

§261《外的権力としての国家と個人の内在的目的としての国家》

 私法と私的幸福、家族と市民社会の領域に対し、国家は一方では外的に必然なより高次の権力で、その権力の本質はそれらの法律であり、並びにそれらの利害は副次的なものであって、国家に依存している。他方、国家はそれらの内在的目的なのであって、諸個人が権利を有する限り同時に国家への義務をもつ点において、諸個人の特殊な関心と国家の普遍的究極目的を統一する強靭さをもつ。

《1.国家における権利と義務の一体化の条件》

 国家の強靭さに関し重要なのは、個人の幸福、そのそれぞれの目的、その精神性および精神的発達といった事柄すべての実現が、普遍の目的と一致した諸個人の目的の実現とその実現の諸個人による自覚に土台をもつこと、そのようにして権利と義務の一体化が現われることである。

《2.権利と義務の違い》

 個人の国家に対する義務は個人にとって本質の立場をもつ他なるものに対する義務である。人間は自由であるゆえ、互いに対する義務をもつ。それは他者の自由という形式をとる私の自由である。神は私の精神の本質的精神である。神は私の特殊な精神とは異なる。そのように私は神に対する義務をもっている。

《3.国家におけるこの立場の相違の解消》

 国家においてのみ、普遍なるものと<このひと>としての特殊な私が一体となって実現される。

§262《国家における大衆の構成》

 現実の理念たる精神は家族と市民社会という精神の概念の二つの理念的領域に分かれる。それはそれらの理念態をとうして精神自身が無限な現実的精神となるためだ。また、精神はこの両領域にその有限な現実性の素材、無数の諸個人を割り当てるが、この割り当ては個人にとっては状況や恣意や生き方の自主選択に拠っているように見える。

《近代国家の原理としての職業選択の自由》

 ― 省略 ―

§263《社会的諸制度》

 家族=個別性・・・直接的現実
 市民社会=特殊性・・・反省的現実
 精神はこれらの中に現われる客観的普遍性、必然の理性的なものの力、すなわち以前考察された制度である。

《1.国家の要素としての社会的制度》

 家族は個別性の原理。市民社会は特殊性の原理。精神は両者の区分の源たる真なるもの。

《2.自然哲学的類比:感覚と刺激反応》

 感覚を分析すると二つに区別できる完全なシステムが現れる。

 第一の要素は、抽象的な感覚、あの自己のもとへの保持、自己内のあの暗い運動、内的な養成、産出、消化である。第二は、この自己自身のもとにある存在が外に出て行くということだ。これは刺激反応である。

 家族は感覚に、市民社会は刺激反応、つまり外への関係になぞらえることが出来る。

《3.国家における家族と市民社会の一体化》

 第三は国家であり、内的に組織された、神経システムそのものだ。国家はそのうちにあのふたつの要素(家族と市民社会)が展開される限りで命をもつ。

 それら両者を統治する法律はそれらの内にあらわれる理性的なものの諸制度なのだ。これら制度の根拠は精神である。

§265《社会的諸制度の中の国家体制》

 諸制度は、体制、すなわち展開実現した理性性を、特殊なるものの中で形成している。それゆえ、諸制度は公共的自由の支柱である。

《1.個々人の問題としての普遍の精神》

 諸制度の中に生きる普遍の精神がそれら(諸制度)に命を与える。精神はここでは精神だけでは自由になれない本来的活動領域のひとつの中にあるのである。すでに§255で述べたように、結婚の神聖さや社会の諸制度が全体の堅固さを決定するのである。すなわち、普遍が特殊なるものとしての個人の問題を決定するのだ。

《2.国家の基盤としての普遍と特殊の浸透》

 理性の法則と特殊の自由(このものとしての私)が互いに浸透しあわなければ、国家は空中楼閣である。個人が彼ら自身の中の精神を満足させることが出来、この満足の媒介が国家そのものであることを見出さねばならない。

§266《社会制度から国家制度への移行》

 家族では自然的なものが人倫の形式となる、心情が問題なのだ。市民社会にあるのは個人の特殊な目的であり、それゆえ個人は依存の関係にある。そこでは、実体的なものとの同一はただ必然性としてのみある。しかし、精神は、現象の領域で必然性としてあるだけでなく、また現象の理念態 Idealitaet でもあり、現象の内的なものとしてそれ自身にとって客観的であり、現実的 wirklich なのである。普遍そのものが目的となる。これが国家の真のありかたである。

§267《国民的心情と国家制度による国家体制》

 理念態における必然性は理念のそれ自身の内での展開である。理念は主観の実体性としては、政治的心情となる、他方、客観の実体性としては、政治的国家とその体制である。

§268《国民的心情:愛国心》

 単なる主観的確信は真理から現れるのではなく、思い込みにすぎない。しかし、愛国心は真なる確信である。国家の諸制度おいて理性のはたらきが現実となり、それらに従った行動が理性のはたらきを実現する。その国家の諸制度がもたらす結果が、真なる確信であるとともに習慣化した意志である愛国心なのである。

《1.確信と真理》

 愛国心は個人が実体、あるいは普遍的なものと一体となることである。

 真理とは、自由がその純粋な規定のの中で自らを目的とし、表現し、実現することである。さらに、真理は主観の表象や反省が対象と同一することである。この同一は精神のみにある。したがって、精神のみが自由なのである。

《2.国家制度による国民的心情の活動》

 愛国心は国家の制度がもたらす結果なのだが、同時に、心情が原因であり、心情を手段と源として、国家は命脈をたもつ。

《3.国民である誇り》

 愛国の志操は私の実体的関心と個別的関心が国家の関心と目的の中に維持、包含されているという信頼である。

 この信頼は、この国は私の国だという、理屈抜きの意識になりうる。しかし、もっと展開された形をとるかもしれない。

《4.国民意識の展開》

 個人は自国民の偉業を知り、誇らしく思ったり、国家の制度を詳しく認識して、自分の利益がゆるぎないと意識しえるし、国家の中で、芸術と学問により、いかに精神的満足をあたえられているかを洞察する事も出来る。

《5.個々人にとっての不動の動者としての国民精神》

 個人を教育するのは個人のその国民、その世界、その時代である。バセドウやザルツマンのように人間を普遍的人間として教育しようとするのはばかげた事だ。教育者自身がその時代に属しているのである。国民の精神は個人それぞれの中で存続している。

《6.国家を憤怒する自己欺瞞》

 たとえどんなに時代や国家について理屈をこねようとも、ひとはまったくそのうちに留まるのであり、時代は土台となって人間を支えている。ひとは理屈を捏ね、しこたま悪態をつく。殻を抜け出そうとするが、だれも自分自身の外へでることはできない。真摯に考えるなら、たがと枷は必要なのだと彼らは気づく。

《7.誤解された愛国主義》

 愛国主義でもって、しばしば極端な犠牲や行動に走ることだけが考えられている。しかし、本質的には愛国主義とは、普通の状態、普通の生活関係において共同体を普通に実体的基礎かつ目的であると知る心情なのである、だから、あらゆる人間は自分が思っている以上に愛国者なのである。

§269《国家制度の機構:国家権力》

 国家組織は理念が理念の区分とこの区分の客観的現実態へと展開したものである。

《1.有機組織としての国家》

 国家の同一性は心情という単純な形式だけでなく、概念の有機体としての政治体制なのである。

《2.有機的過程としての国家》

 政治体制はつねに国家から生じ、また、国家は政治体制により維持される。両者が分離すれば、さまざまな側面が一人歩きをし、政治体制を生み出す統一はもはやもたらされない。

《3.”生命”というカテゴリー》

 断定や原則では国家についての評価はうまくいかない。国家は有機組織として捉えられなければならない。神の本性を捉えるには、その内なる生命を把握しなければならない。

§270《国家の理念、国家制度と国家権力の柱石》

 国家の目的は公共の利益であり、また、公共の利益の中で特殊な利益を維持することである。1)これは国家の抽象的現実性ないし実体性だ。しかし、2)この抽象的実体性は国家の必然性である。この実体性が国家活動の概念区分へ分岐していく、そういう必然性である。3)実体性は、さらに、教養の形式の経験を踏んだおのれを知りおのれを意志する精神である。国家の活動は目的意識と原則の熟知に基づき、暗黙の法規ではなく、法規を自覚しておこなわれる。目前の状況や関係にかかわって行動する場合は、それらの明確な知識に基づく。

《§270A:国家と宗教の関係に関する付論》

 ここで、国家と宗教の関係について触れなければならない。

《1.国家の”真理”としての宗教》

 宗教は究極のものである。この究極のものおいて究極の真理がもっとも純粋かつもっとも普遍的な形態で考察される。その限りで、宗教は国家の真理であり、国威の拠所である。

《2.国家の精神と宗教の精神》

 国家は精神が自立する最高の形態ではない、この形態は宗教の自己意識においてはじめて存在する。国家はこの世俗のあり方の中で己を知る精神である。精神はひとつであり、それが国家と宗教の精神であるのだが、国家の精神は世俗のうちにのみ現れるのである。

《3.宗教の精神から現れる国家の精神》

 何よりもまず前提されなければならないのは、国家は宗教に基づき、宗教は国家の真理であるということだ。イスラム国家はキリスト教の国家とはまったく別なものとならざるを得ない。キリスト教からは、イスラム教とは別の原理が生ずる。例えば、前者には奴隷はいない。新教(プロテスタント)からはカトリックとは異なる国家社会が出現する。国家のなかへ宗教が持ち込まれるのではない、宗教はむしろ国家の根拠なのである。

《4.宗教と国家の一致》

 宗教において、ひとはよろこびを享受し、神の恩寵を意識する。国家においては、ひとは法律や義務等の形式をもってあらわれる限りでの、自分の自由な精神の領域にある。両者が真のあり方をすれば、互いに矛盾しない。

《5.国家と宗教の離反》

 だが、国家と宗教が隔たりをもち対立することもありえる。宗教は内的なものとしてあるというその形式を固持し、良心、心情、想念、心像、感情とかかわることに固執する。宗教がこの内的な形式を固持するなら、宗教の精神は現実性としての精神とは区別され、世俗にある精神に対抗するかもしれない。そうならば、宗教の精神は国家に無関心になり、国家を軽蔑し、国家を何ら敬意にあたいしない世俗の制度とみなす。

《6.宗派》

 世俗とのかかわりを避けるクエーカー派や再洗礼派やヘルンフート派等々の宗派が生ずる。クエーカーは兵士となることを不正とみなす、かれらは国を守らない。かれらは国家の義務を拒否し、市民社会でのみ生きる。大国はかれらをその内部に許容できるが、小国では不可能だ。クエーカー教徒の国家はありえない。

 いかなる国民も戦争を行うべきではないとかれらは言う。この見方が一般的なものとなれば、戦争はなくなるだろう。しかし、このような見方はいまだ一般的ではなく、それゆえこの心情は一部の人間のものに違いない。戦争はそれ自体が何か不正なものなのであり、上記の見方に基づいてのみ無くなるのかも知れない。いろいろ言われるが、国家が現実に存在する限り、国家は戦争遂行の現実的可能性をもつことになる。したがってまたその必然性もあるにちがいない。

《7.宗教的狂信》

 敬虔が現実と対立し内面の存在に固執すると、敬虔は宗教的狂信となる。これはまた思想的狂信でもある。フランス革命の抽象的自由とそこから直ちに帰結される平等がそうだ。官庁等は個人に対し影響力を行使しなければならない。そのようにしてすぐ不平等や制約がでてくる。平等の狂信をとおせばいかなる組織も成立し得ない。この狂信はあらゆる区別、あらゆる秩序の平準化である。それは宗教が内面によってたち、世俗を蔑視するゆえに、宗教と国家の関係の危険なあり方なのである。

《8.中世における宗教の世俗化》

 宗教自体が世俗化されることもありえる、特に中世ではそうなっていた。宗教が大きな財産を取得し、支配者となった。聖職者が世俗の支配者でもある特殊な国家形態だ。そこには、宗教がこの世のことの決定権をもつべきだという考えが混入されている。

 国家はその限り、決して国家自身により成り立つのではない。個人の内面に基づき、国家と別して重視せられ、国家の原理に対抗し、そうして危険なものになりうる、国家の原理にとって外部となるものの独自の活動がなおこの形態の国家にはあるのだから。

《9.プロテスタンティズムにおける国家と宗教の一致》

 抽象的には、プロテスタントの精神とは主観的精神の内なる自由であり、人間の精神が自由であること、いかなる権威もあるべきでないならば、人間の精神が関与しなければならないということである。国家の原理もまた、人間が自由に生き、行動すること、国家が人間の自由の実現に他ならないことである。そのように、宗教は国家とは異なる究極の原理をその内にもつのではない。両者はひとつの源泉から湧出する。新教では、だれもが聖霊(精神der Geist)は自分の内なる魂(精神ein Geist)であるという確信を拠所とする。この原理はプロテスタント教会と国家のもっとも内的な関係となるものである。自由が現実としてあること、この世俗的原理が新教の原理なのである。

《10.カトリック諸国家における革命運動》

 フランス、スペイン、ポルトガル、ナポリ、ピエモント、アイルランドなどのカトリックの国々はここ三十年の間に革命を経験している。これは宗教の原理と現実世界の原理のねじれが原因であり、このねじれは今日に至るまでいまだ解消されていない。

《11.プロテスタンティズムと現代の学問》

 学問は人間の現実的自由を前提とし、土台とする。それは本質的にプロテスタント的な原理の形態である。

§271《11.国内法の区分》

 −省略ー

(中澤)