池内 紀『カフカの生涯』新書館 2006/12/23 年末忘年会 柳下宅

 等身大のカフカを描いた評伝とのこと。カフカは出会った女性と文通し、大量の手紙をやりとりする。なかなか、結婚に踏み切らない。結婚の損得対比表を相手におくったりしている。しびれを切らして、直接会いに行くのは女性の方だ。手紙は、事務的にはじまり、急に親密さをおびるが、余所余所しくおわる。これを何人かの女性とくりかえすのである。われわれの意見では女性の振る舞いのほうが常識というものに見える。薄給ながら、旧友の父親の紹介で半官半民の労働者障害保険協会に勤め小官吏の生活をしている。しかし、自分の事業を継いでもらいたい父親からすれば、パラサイトも同然だ。妹が借りていた部屋へ引っ越すまでは、執筆を妨げる雑音に満ちたの親の家から抜け出すことも出来ない。カフカの本質は小説の執筆である。「もしもぼくが書くことを失えば、きみはすべてを失うだろう」なのだ。なぜにカフカは小説を書くようになったのか、この評伝には、小説の製作経過の記述はあるが、文学的な意味との関連が欠落しているように感じる。とくに、女性関係は同じパターンの繰りかえしで面白みはなかった。評伝とはそういうものだろうか。『変身』のグレゴールは父親がモデルだとの指摘はあるが、それ以上の突っ込みはない。読書会では、その詮索を池内紀は読者に任せているのだ、ということだった。事実を追っていくだけなら、そうゆう人間がいるのかと、教えられるだけである。あとがきには「これまでの評伝からこぼれたものをおもに集めた」とある。

普通われわれはその時代の東欧の状況はよく知らない。だから、生活史の内容は興味深い。村のゲットーでの堵殺業を営む祖父の貧しい生活。ユダヤ商人として成り上がる父。チェコ人とユダヤ人の関係。ハプスブルグ帝国の一部だったチェコでのドイツ語教育事情、ギムナジウムの教育方法。友人ブロートとその関係。ドイツ語教育を選んだユダヤ人カフカの立場。<東欧ドイツ語>と訳され、<ユダヤ・ドイツ語>と呼ばれたインディッシュという言語。シオニズム。家政婦の実情。ヒットラーの話・・・。

交際した女性たちはカフカからの手紙を保存している。これらの手紙は意図して保存されたのか、あるいは偶然に残ったのか、議論になった。そもそも、手紙というものは捨てにくいものであるというのが結論のひとつ。

読みやすい、明解な、文学的表現の文章だ。型にはまった言い回しが見受けられるとの意見もあったが、淡々と静かに人間カフカの精緻な自伝的事実を物語って叙述している。カフカにたいする<いとおしさ>と<いつくしみ>が行間からにじみ出ているように感じた。

(中澤)




メルヴィル『モビー・ディック 白鯨』2007//25 合宿:館山

6月下旬に今回の読書会の本を決めたのだが、読了できなかった人は参加者11名中半数ぐらいいた。『白鯨』について不評だった理由は以下のとおり。鯨学など脇にそれた記述が多く耐えられなかった。エイハブがなかなか登場しないなど物語の展開がスムーズでない。捕鯨船と捕鯨漁のはなしであり、ドラマチックな展開に欠ける、異性が登場しないのは人間社会本来のすがたではないので興味が削がれる。等々。

物語的文章、劇的文章、鯨学の文章が混在し、また、書きなおしがおこなわれていて、全体の構成が大きく変えられ継ぎ接ぎになっていることは、研究者によっても指摘されているようだ。

ただし、このような欠陥を補って余りあるのが、鯨の捕獲、解体の迫力に満ちた場面と随所に噴出する思想の詩的な表白である。メルヴィル自身が父の事業の失敗のため21才のとき捕鯨船に乗り込んだ経験をもち、その経験に基づく捕鯨漁と解体作業の迫真の描写は読むものをひきこむ。また、詩的夢想に近い思想の表出が魅力的だ。たとえば、

港が救いの手を差しのべている、港は情けにあつい、港は安全となぐさめを提供し、炉辺には夕餉が用意されている。暖かな毛布があり、友がいて、港は、つまり、我ら死へと崩れ行くものたちへのいたわりに満ちた場所なのだ。だが、嵐のとき、港は、そして陸は、船にとっての最大の危険となる。このとき船は、やさしく手を差しのべるものすべてから逃亡しなければならぬのである。ほんのわずかに陸に触れるだけで、そしてそれだけなら竜骨を少し擦るだけのことなのだが、しかし、それだけで船体に激震が走る。だから、あるだけの力を振り絞り、あるだけの帆をいっぱいに張り、できる限り岸辺から遠からねばならぬのである。親切にも船を家庭の方へと押し流そうとするまさにその風に逆行して、船は突き進まねばならぬのである。疾風逆巻く遠い海の方へ、陸影ひとつ見えぬ寂寥の外洋へ、繰り返し戻ろうとしなければならぬのだ。救いをもとめて危険と孤独に参入する。唯一の友、それは、もっとも恐るべき敵と同一のものでなければならない!

・・・深い情熱に支えられた思孝は、すべて、魂の海の果敢なる独立を守り抜くために尽くす壮烈なる魂の努力にほかならぬ、と。だが、天と地の間には黒々と荒れ狂う風が吹き渡り、魂を岸辺へと、人を騙し人を奴隷化する岸辺へと叩き付けようとするものである、と。

だが、それにもかかわらず、陸影なき寂寥の海にのみ至高の真理は現れ、それは岸辺もなく、限りもなく、神のごとく現れ、ならば、まずもろともにあのうなりを上げる無限の空間の中に滅びに行こう!安全だからといって、力なく廉恥心なく風下の岸へ駆け込むなどは唾棄すべき生きざま!ああ、蛆虫のごとく、一体だれが陸の上を這いずり回ろうか!・・・」メルヴィル『白鯨』上 講談社文芸文庫 p274−5<23.風下の岸> 千石英世

というぐあいだ。

もうひとつ特記すべきは、ホーソンを敬愛するメルヴィルの、観念的ではない、生身の登場人物が体現する人間性であり、平等観である。かなり以前グレゴリー・ペックの映画を見たときは、全身刺青の土人の登場は、白鯨と対決するドラマ内容に差し挟まった猥雑物のように思えたが、そうではないのだ。小説の中では、その刺青のクイークェグやエイハブ乗るボートの漕ぎ手である肌色の異なる人物達のほうが、人間性でも、身体的能力でも優れたものとして描かれている。また、民主主義という言葉、この民主主義は肌の色も、どんな宗教(キリスト教も、偶像教徒も)も同等なのだ。有色人種を登場させること自体がキリスト教や白人主義の批判となっている。

エイハブの狂気につては、私としては説得力に欠けると感じた。エイハブの悪とはなんだろうか。攻撃性の悪、扇動の悪、理性喪失の悪・・・。白鯨を追跡するエイハブは狩猟本能とか漁の醍醐味とは違う、復讐の狂気だ。鯨漁の醍醐味はそれとは異なる鯨漁の場面で存分に展開されている。エイハブがなぜそこまで追跡するのか、その理由がはっきりせず、納得出来なかった。一方、ゆうぜんと回遊しながら登場するモビィ・ディックに憎悪の対象となる悪の印象はなかった。これもわれわれの鯨に対する見方(海の怪物というより、保護の対象)が変わったからか。

事物別の章分けになっていて、物語別<ドラマ別>ではない。物がそれぞれ物語をもつているかのような世界である。物語に入って行けないとの意見もあるが、このような区分けの仕方のほうが読みやすいというひともいた。わたしも、物語にどっぷり浸かるのではなく、客観視しながら読書出来る記述は嫌いではない。

レコーダーを忘れたので正確に採録できないが、長谷川先生の<メルヴィルは、鯨にのめりこんだこの小説で、鯨をまるごと捉えたという気持ちではなかったか>という主旨の発言が印象に残った。

(中澤)