佐和隆光著;“日本の「構造改革」”を読む

 本書(佐和隆光著“日本の「構造改革」”;岩波新書)は、昨年12月に行われた、当会の忘年会を兼ねた読書会における課題図書2冊のうちの1冊で、他の1冊は浜矩子著、“グローバル恐慌”であった。この2冊のうち、“日本の「構造改革」”については、ほぼ1年半前、同じ著者(佐和氏;以下同じ)による“市場主義の終焉”と共に続けて読み、興味を覚えたので、昨夏の当会夏季合宿の際に、合宿時読書会の課題図書とすることを提案したが、その際には、取り上げられず、半年遅れで取り上げられたものである。私がこの本を提案した理由の一つは、日頃、ヘーゲルの著書をはじめとする難解な思想書に親しむことの多い(であろう)当会の会員に本書のようなプラグマティックな傾向の強い経済書がどのように受け入れられるのか、あるいは受け入れられないのか、一抹の危惧とともに、興味を持ったためであった。

1 本書の論旨要約

  本書は、全体で以下の4章から構成されている。

  第1章 市場主義社会は「ユートピア」だった

  第2章 日本の構造改革

  第3章 曲がり角に立つグローバリゼーション

  第4章 いま、どう変えるべきか

  以下では、各章の論旨を要約する。


第1章 市場主義社会は「ユートピア」だった

 「小泉構造改革」(本書の出版刊行は、2003年12月、小泉内閣による「構造改革」が推進されている最中であった。)に先鞭をつけた、英国のサッチャー首相、米国のレーガン大統領等の指導の下に、1980年代に展開された市場主義に基づく経済政策と、小泉構造改革とを比較すると、前者が「市場主義という確固たる思想的裏づけを有していて、疲弊の極みにあったイギリス経済に、活力を注入することに成功した」のに対して、後者、「小泉構造改革」は、「自由、透明、公正な市場経済をつくるという意味での、市場主義改革の王道を歩むのではなく、財政改革という狭義の構造改革のみに片寄った『いびつな構造改革』」に過ぎない。ただし、「純粋な市場主義社会」をユートピアのようにみなし、「小さな政府」を志向し、社会経済活動のいっさいを市場にゆだねることが望ましいとするサッチャー流の改革も、「経済活性化という点では応分の成果をもたらした」ものの、反面において「所得格差の拡大、公的医療・教育の荒廃、失業率の高まりなどの『副作用』をもたらした」。

 「21世紀の最初の10年において、国の内外で起きると予想される政治、経済、文化などの『変化』にどう適応するべきかについて」は、

第1、マクロ経済を生命体のアナロジーとしてとらえ、経済を活性化させるための方策をこうじるべき

第2、日本の市場経済を自由、透明、公正なものに改革するべき

第3、市場主義改革と「第三の道」改革の同時遂行させるべきで、この「第三の道」改革とは、「平等な福祉社会をつくる」ことをめざすものである。

著者は、市場原理主義とか、絶対的市場主義と呼ばれる考え方、社会経済活動のいっさいを市場経済に委ねておけば、自由な競争的市場の働きにより、最適な資源配分と福利厚生が実現されるという楽観的な考え方をとってはいないが、市場経済の調整機能の意義を否定しているのではなく、「経済を計画したり、制御したりするのがむずかしいのなら、市場の調整機能に任せておくのが、少なくとも『次善の策』である。」と述べ、上記の第2、第3の意見を展開している点に注目しておきたい。

第2章 日本の構造改革

 平成不況と呼ばれる、長期(10年以上)におよぶ日本経済の停滞について、宮崎義一氏(故人)が1992年に書いた「複合不況論」の「平成不況は、在庫調整に加えて不良資産の調整という、二つの調整過程をへなければ完治しない『複合不況』であり、いわゆる(公定歩合の引き下げ、公共投資の大盤振る舞い、個人所得税率の引き下げなどの)常備薬の投与では片付かない」という診断は的確であり、多くののエコノミストの楽観論や、米国の著名な経済学者(クルーグマン、スティグリッツ)によるインフレ・ターゲット論や政府紙幣発行論などの景気対策、デフレ対策提案の効能は疑わしい。

 構造改革ということについては、「日本の市場経済は不自由、不透明、不公正に過ぎ、それを自由、透明、公正なものに作り替えることが、私(佐和)のいう経済構造改革にほかならない」。「自由、透明、公正という三つの公準は互いにトレードオフの関係にある場合もあるので、これらをどのように兼ね合わせるかが問題で、その兼ね合わせ方次第で、異なる類型の市場経済ができる」。つまり、構造改革の道は一つではなく、多様な選択肢を持つ。また、長期停滞に旧来の常備薬が効かなくなった原因は、「市場経済の力」が強大になったために、その制御可能性が低下したことと、1990年代に急速に進展したグローバリゼーション(グローバルな市場経済化)とがあり、長期停滞から脱出するためには、一国のレベルでは、構造改革の手順とテンポの入念な吟味が必要不可欠で、これに加えてグローバルなレベルでのケインズ主義的政策が必要である。

 1990年代以降、日本経済は安定した工業化社会の段階を終え、ポスト工業化社会の入り口に達した。ポスト工業化社会には、所得格差の拡大、リスクと不確実性の増大、自由競争の結果が「一人勝ち」に終わる公算の高まり、企業会計の不正横行という矛盾や歪みが生じる傾向がある。このような矛盾と歪みを備えたポスト工業化社会へ向う今(2003年)こそ、一本やりの市場主義改革ではなく、「第三の道」改革を同時並行的におしすすめることが欠かせない。

 第2章の後半で著者は、1944年にケインズなどの尽力によって設立され、第二次世界大戦後の世界経済の発展と安定に貢献してきたIMF(国際通貨基金)が、1980年代以降は、米国財務省の後押しにより、市場万能主義の教義に転じ、途上国に対する支援融資の条件として資本市場の自由化を義務付けることによって、IMF資金は結果として途上国の経済を安定させるよりも、むしろ国際金融資本の収益(ハイリターン)実現に役立てられていると述べている。戦後の日本経済の発展にも貢献したIMFの変貌ぶりに驚かされ、改めて市場における公正の実現の重要性と困難を教えられる。

第3章 曲がり角に立つグローバリゼーション

 グローバリゼーションという言葉は、1990年代に入ってから、使われはじめた新造語で、「世界中の国ぐに、人びとが、国境を越えて、より緊密に結びつけられるようになる」ことを意味する。狭義のグローバリゼーションは、「グローバルな規模での市場経済化」を意味する。90年代に入ってまもなく、旧ソ連・東ヨーロッパ諸国の社会主義体制は一挙に崩壊し、いっせいに市場経済化をおしすすめるようになったこと、そして勤勉かつ有能な労働力を豊富にもつ東アジアの発展途上諸国が、先進諸国からの資本輸入と技術移転を図るべく、市場経済化をおしすすめるようになったことが、この狭義のグローバリゼーションが急進展した理由である。またこの背景には、同じ90年代における情報通信技術の進歩が、地球上のどこにいても、即時的にほぼ同じ情報に接することを可能にしたという事情がある。グローバリゼーションが「社会主義の崩壊」と「情報・通信技術の進歩・普及」の結果とするなら、それはせき止めることのできない「潮流」である。

 90年代、クリントン政権下の米国は、経済的にはハイ・テク工業と、ソフトウェア産業の発展に支えられ、強大な軍事力を背景に世界唯一の超大国として、グローバリゼーションのガバナンス役を引き受けることになった。97〜98年にかけて東アジア通貨危機が発生したが、米国政府の後押しを受けたIMFの支援融資によって、大事に至らず収束することができた。21世紀に入って、米国ではブッシュ共和党政権が誕生し、ネオコンと呼ばれる支配層が、市場原理主義に基づいて、世界各地で、自由主義、民主主義体制の押し付けと、市場経済化をおしすすめることになり、これがイスラム文明圏のイスラム原理主義との間に深刻な対立を生むことになった。2001年9月11日の世界貿易センタービルと米国国防総省ビルの爆破テロ事件とその後に続いたイラク戦争とは、この二つの原理主義の対立がもたらした結果である。クリントン政権から、ブッシュ政権への移行はグローバルな市場経済をガバナンスする役割を米国政府が放棄するという事態を招きかねない。近い将来、97年の東アジア通貨危機に類する金融危機が再来するならば、ガバナンス役不在のグローバル市場経済はどうなるのか。

 著者はこの章において、グローバリゼーションの流れが止めることのできない世界経済の潮流であること、90年代までは米国政府は、グローバルな市場経済のガバナンス役を曲がりなりにも果たしてきたが、軍事ユニラテラリズム(単独行動主義)に走りがちな21世紀初頭のブッシュ政権下で、金融危機が発生するリスクについて繰り返し警告しており、不幸にしてこの警告は、2008年9月、リーマン・ショックの発生という形で、半ば的中することになってしまった。

第4章 いま、どう変えるべきか

 日本の本格的な景気回復のためには、ポスト工業化社会へ向けて「離陸」することが必要であるが、ポスト工業化社会では、失業者の多くは、相対的に低賃金のサービス業にしか再就職のあてがない。そこで、経済運営の最重点は雇用機会の創出である。そのためには、地方分権の推進により、地方にハイテク製造業やソフトウェア産業を立地させ、人口集積効果を利して、サービス産業の地方都市への立地条件を整えること、さらに医療と教育の「構造改革」(アメリカナイゼーション=不必要な薬に投入しているお金を人の雇用のために向け、小中学校教員数を倍増させる)により、医療と教育両分野での雇用の倍増を図ることを提案する。ポスト工業化社会の柱は、ハイテク製造業とソフトウェア産業であるが、日本は、これらのうち、得意分野であるハイテク製造業に軸足を置いて技術革新を成し遂げるための環境を整備するのが、賢明な戦略である。

 市場主義社会において生じる可能性のある“機会不平等に起因する結果不平等”はあってはならないことである。それ故、累進所得税は維持する必要がある。旧来のセーフティネットとしての福祉(市場競争の敗者を救済するための福祉)よりも、福祉に依存しなければならない人の数を、できるだけ少なくするために福祉(いったん敗れた者に、再度挑戦する支援をする福祉)を使うことが、福祉政策の破綻を防止する最善の方策である。「失われた10年(1990年代)」の最大の遺失物は人的資本の劣化である。荒廃が続いている公教育を、「可能性の平等」を達成することを目標に抜本的に改革しなければならない。ポジティブな福祉社会の構築をねらいとするこれらの政策を「第3の道」改革と呼ぶ。

 2003年10月、民主党と自由党が合併し、新民主党としてスタートした。自由党は新保守主義を標榜する政党で、市場主義改革を推進する力を持つ。一方、旧民主党は、「第3の道」に共感する者が少なくなく、その意味で、両党の合併は、現在の日本にとって「必要十分な改革」(市場主義改革+「第3の道」改革)を実現する可能性をもつ。新民主党が市場主義改革と「第3の道」改革に労苦をいとわないことを願ってやまない。繰り返すと、日本が長期停滞から脱出するための必要条件は、第一に、技術革新をうながすこと、第二に、人的資本の劣化に歯止めをかけること、第三に、資本収益率の高い投資機会にむけて、資本を誘導することである。そうしてハイテク産業とソフトウェア産業を二本の柱とするポスト工業化社会へ速やかに移行することである。そのうえで、グローバリゼーションという20世紀末以降の一大変化(潮流)に適応するべく、日本の構造(制度・慣行)の改革に本気で取り組むことである。

2 読後感

  本書が対象としているのは、主として20世紀末の10年間における日本および世界の経済社会の状況であり、その期間の日本経済は本書でも記述されている通り、「失われた10年」とも呼ばれた閉塞状況にあり、その状況は、2010年8月の現在に至っても解消したとは言えない。本書は、この期間に日本および世界で進行した経済(部分的には政治)事象を、巧みに整理して解説しており、この10年間と21世紀はじめの10年間の経済社会を理解するうえで、格好な見取り図を提供しているように思う。

  以下では、本書で挙げている主要な論点のうち、私が興味を覚えた2点について感想を述べることにしたい。

@   構造改革との関連で、政治上の対立軸をどのように考えるか?

  著者は、第4章において「かねて私は、日本の政界は、保守とリベラルの対立軸にそった再編成をまたねばなるまいといいつづけてきた」と述べている。保守主義とは、一般に自由な市場を万能の存在と考え、小さい政府を志向し、経済活動の多くを民間企業にゆだね、自己責任をモットーとする立場であり、国の秩序と伝統を重んじる立場であるとする。一方リベラリズムとは、市場経済は「不完全」なもので、失業や景気循環などの不安定を免れないので、財政金融政策を駆使して、市場の不均衡と不安定を除去しなければならず、経済的弱者や異端に対して寛容な立場をとる。現代の欧米先進国における政治的な対立軸も、概ねこの保守対リベラルの構図となっており、著者は自由党と旧民主党の合併により結成された(新)民主党は、リベラルと新保守主義者を幅広く結集している故に「改革のために必要十分な政党」として期待を寄せている。民主党が政権をとってから、ほぼ10ヶ月経過した今の時点で振り返ってみると、著者の期待は楽観的に過ぎた面があり、現在の民主党政権の内部では、むしろ保守対リベラルの内部的亀裂が深まっているようにも見え、あるいは保守対リベラルという原理的な対立よりも、実際には、政権与党内で主導権争いをしているだけのようにも見える。長く政権を維持してきた自民党と同様に、民主党政権もまた、確固たる主義・主張をもって、日本社会にとって必要な改革をおしすすめる信念と実行力を備えているようには、見えてこないのが残念である。著者は、2009年3月11日付の日経新聞夕刊紙上で、「つい数ヶ月前までフリードマンを奉っていた日本の経済学者、経営者、政治家の多くが、世界同時不況の襲来後、今度はケインズの前にひれ伏すようになった。他方、昨年9月に金融安定化法案を否決、12月に自動車産業救済法案を廃案に追い込んだ米上下両院議員の多くは、自由で競争的な市場の敗者を国が救済することを「否」とするフリードマンを奉り続ける。その首尾一貫性に対し、私は心よりの敬意を表したい。」と書き、時流のままに揺れ動きやすい、わが国指導層の多くを皮肉っている。上のような意味で、自らの主張に確信を持ち、政治行動においてぶれることの少ない国会議員が議会の多数を占めるようになるためには、なお何段階かの政界再編成と、選挙による厳しい淘汰が必要で、まだ先のことのようにしか、私には思えないが、著者のいう「保守とリベラルの対立軸にそった再編成」は、それを実現するために必須かつ重要な1ステップであると私も考える。

A   グローバリゼーションはせき止めることのできない潮流である。

  グローバリゼーション(「グローバルな規模での市場経済化」)は、「社会主義の崩壊」と「情報・通信技術の進歩・普及」の結果で、せき止めることのできない「潮流」であるというのが、著者の見解である。この問題に関する議論は、メディア上で様々に展開されていて、特に米国経済との関係から論じられることが多いという印象を受けていた私は、漠然と経済秩序のアメリカ化といった概念でとらえていたのだが、そのような認識は事柄の一面をとらえているに過ぎないことが良く理解できたように思う。また、グローバリゼーションと、市場原理主義という二つの言葉が一緒に使われることも多く、この二つの異なる言葉を混同する事例も目立つ。例えば、2009年8月27日付のニューヨーク・タイムズ紙には、衆院選挙で勝利する直前の鳩山由紀夫氏の名による次のような記事が掲載された。

  In the post-Cold War period, Japan has been continually buffeted by the winds of market fundamentalism in a U.S-led movement that is more usually called globalization. In the fundamentalist pursuit of capitalism people are treated not as an end but as a mean. Consequently, human dignity is lost.

 (冷戦後の時期において、日本は絶えず米国の先導する動き、より一般的にはグローバリゼーションと呼ばれている動きの中で、市場原理主義の風に打たれ続けてきた。市場原理主義者の資本主義追求において、人は目的としてではなく手段として扱われ、その結果、人間の尊厳が失われている。)

引用は、“A new path for Japan”と題した投稿文冒頭の一節で、文中、グローバリゼーションと、市場原理主義(market fundamentalism)とが、密接不可分な関係にあるように説明されている。確かに、グローバリゼーションと言われる動きの中に、日本の市場開放を迫る米国の規制緩和論者、金融資本などの攻勢があり、それが日本市場を海外諸国に対して開放するための、強力な推進力になったことは間違いない。しかし、だからといって日本(経済)がグローバリゼーションの一方的な被害者であるかのように考えるのは、誤解ではないか。日本市場が開放される動きの反面では、日本資本もまた、欧米市場や、東アジア市場に進出し、トヨタ、ホンダは世界有数の巨大企業化し、日本国は世界一の債権国の地位を維持してきたのではなかったか?

  国難と呼ばれることさえある、グローバリゼーションの波に的確に対応するためには、この事象を避け難い現実として受け止め、その由って来るところを子細に分析して、具体策を提案するしかなく、この点において私は、本書における著者の提案に強い共感を覚えるのである。

3 結び・・・・・会員の意見から

  Aさん;これを経済学というのであれば、志が低く、夢がない。せめて所得格差を5倍以内に縮小するくらいのことは言ってほしい。また、普通の人間のことを考えていないように見える。

  Bさん;最近の学生は就職も難しく、我々が若かったころには感じられなかったような重苦しさを感じている人が多い。そういう状況については突き放して見ている本である。

  Cさん;本の中で述べている予測が当たっており、また具体的な政策の提言をしている点は評価できる。著者は有能な人だと思う。

   断片的なメモによる抜き書きのため、個々人の意見の詳細を書けず、恐らく発言者の意を尽くした内容になっていないのは、残念であるが、本書の評価については、否定的もしくは無関心(コメントなし)という意見が多く、私が危惧していた通りの結果を見たとも言えるが、会を終えて帰路、一緒になったAさんは、「良い議論になりましたね。」と言ってくださり、また本来異なる立場や意見を戦わせて、より高い立場、意見に到達することは、ヘーゲルを読む会の趣旨にも適うことではないかと思い直して、自分を慰めたのであった。

                                     [2010.8.20 文責:柳下]



ヘーゲルを読む会