ヘーゲルを読む会


はじめに

02/06/06 02/06/20 02/07/04 02/08/30 

02/06/06 出席者:長谷川、池内、大澤、加々見、中澤、鈴木、新浪

p75−78、von Anfang〜bis <Die Form aus der Gegenseitigkeit diess an einander zu achten und zu ehren, sich nicht zu stoeren in der Befriedigung des Triebst.>

P9―12 始め〜「欲求の満足に際してたがいに傷つけあうことがない、という相互関係が、正義の形式をなす。」マデ(長谷川訳)

(本文概略)

はじめに

 論点の第一は自然法と法学の関係、第二は哲学の実定法への関係、第三は法学の歴史的側面からの論及である。

1.自然法と法学

 a)自然法についての問い

 自然法は恣意の基づく人為による法に対立する人間の普遍的自然(本性)の法である。

 b)<自然>という言葉の二重の意味

 Natur(自然)は二重の意味を持つ。一方ではありのままの存在、さまざまな面でのわたしたちの直接的あり方であり、他方、事柄の本性、事柄の理性的あり方である事柄の概念がNatur(自然)といわれる。

 c)自然法論の自然主義者的糸口

 自然法論において上述の二側面ははっきり区別されていない。自然法論はあるべき法を求めて、必然に思える自然的なもの、衝動、欲求へ向かう。その欲求の満足、生命の維持は必然であるが、他者にとってもまたそれは必然であって、この相互承認により法が現れる。

(会の要旨)

 日本人には、法の根拠を問うという法意識は、権力、民、双方にみられない。歴史的にすべて既成のものを中国、西欧から受け入れてきた。最近の環境法などについても、西欧で出来上がるのを待つという姿勢がある。

 Sie(Schranken,vielfachen Veranstaltungen《Pflichten,Rchten,Anordnungen im Staate》) koennen von der Bestimmung des Menschen weit abliegend erscheinen.

 このBestimmungは人間の本性、本来のあり方ということ。

 【新】自然法は権力に対するプロテストの側面を持っている。

 自然のふたつの意味を、ヘーゲルは厳密に区別し、概念により法理論を展開する。

 (φυσιs(自然)はφυω(生ずる)に同じ。人為ではない自ずから生ずるものの意味である。これは老子の無為自然に通ず。φυσιsはすでにヘーゲルいう二重の意味をはらんでいる。ギリシャの自然は神にも影響するものであるが、ヘブライズム(キリスト教)により自然はヤハウェの被造物となった。自然は古来、神話力を有し、精神と無機的自然の対比はデカルト以降の所産。)

 【中】ヘーゲルの世界観の根底はGeist(精神)で、自然が物自体としてそれをはみ出すことはない。

 現在の法学で法(正義)の根拠はどうなっているのか?自然権派、契約派等々いろいろあるのでは。

 (本文に言及されているフーゴの構想を継いで歴史法学を完成したサビニーは1812年ベルリン大学総長になった。歴史法学は法の歴史社会学の発想をしたが、民族の精神を法曹資料のなかに読むことで、自己完結的形式論理の概念法学につながる。概念法学における法体系の無欠缺(むけんけつ)を批判したのは利益法学や自由法論。法の司法的推論をもとめた。これら近代法学に共通するのは人為法である実定法のみを対象とする法実証主義である。)

                                               (中澤)

02/06/20 出席者:長谷川、池内、大澤、中澤、加々見、鈴木、新浪

p78-82、von<Aber die Beduerfnisse des physischen Lebens sind nicht die einzigen Beduefnisse,>bis<durch das Sein,das Gelten ist jedoch ueber den Werth noch nichts gesagt.>

p12-15「が、物質生活上の欲求が唯一の欲求ではなく、」から「法律としてあり、法律として承認されているからといって、それだけでは内容の価値についてなにもいったことにはならないのです。」まで(長谷川訳)

(本文概略)

d)基盤としての社交衝動

 生理的生命の欲求の他に精神的生命の欲求がある。社交、社会への衝動である。この衝動は一方では性に関係し、他方では市民社会、国家に関係する。社交衝動と性関係が結びつけられると貧しい規程しかもたらさない。結婚は単なる自然衝動ではなく、社会的なものだからである。

e)自由の衝動と自然主義者的糸口の解体

 さらに自由の衝動、自由への欲求がある。自由への欲求は他の自然衝動と相応して現れるが、また自然衝動と矛盾、それに抵抗し、普遍的な生命衝動すら抑制できるものである。自由が、法において問題となるのは事柄の本性である自由だ、と主張すると、自然法の名はぐらつく。事柄の本性(Natur)として自然(Natur)は残るが、自然が調和的なのに対し自由は論争的であり、もっとも身近な自由にとっての対立者は自然なのである。

f)自由と自然の一致

 自然法において自然的欲求が根底に置かれるとしても、自然法は自由を排除するわけではない。しかし、自然法では自由は固有性を損なわれている。自由は他の原理(自然)とあい並んであるのではなく、自ら自身のもとに自らあること、かたちを他によって得るのではなく、そのかたちをも自らにひとしくすることでならなければならない。自由と自然の一致は、両者が洗練され、自由によって自由へと輝きを与えられることであると把握されねばならない。法学を包括的、首尾一貫したものにする自由の原理をわれわれの学の中に見ていくことになる

2.法哲学と実定法学

a)自然法と法哲学共通の源

法(正義)たるものが汲み出される源はどんな人間にも内在する固有のものだというのが、自然法が法哲学と共通するところである。たしかに性癖、欲求、欲望は人間に内在し、外から課されてはいない。だが同時に単に生来のものにすぎず、われわれは直接に規定されてしまっている。自然衝動においてわれわれが自身を自由だと見なすのは表面的なことである。

(中澤)

(会の要旨)

 Der Trieb zur Geselligkeit,zur Gesellschaft(仲間を求める衝動、社会への衝動)・・・・・

 出典は不明。個の衝動からの説明はイギリス経験論あたりか?

 So kann als das Wahre erscheinen,dass der Staat aufzugeben ist, und ein Zustand herzustellen, ein Paradies der Einbildung oder ein Zustand wie wir ihn in der Vorstellung der sogenannten unschuldigen Voelker haben.(かくて、国家を破壊し、自然状態を―――想像上の楽園、ないし、いわゆる罪なき民の生活状態を―――確立することが、正しいことに思えてきたりします。(長谷川訳))

ヘーゲルが批判的にみている自然主義者の主張を際出させて、論を定めようとしている所。罪なき民とはアダムとイブが思い浮かぶ。

 Der Trieb der Freiheit(自由の衝動)

 形容矛盾、こういう言い方が当時あったのか?口頭の講義だからで、著作では用いていない。Freiheit(自由)を論争的、ディアレクティシュ、自然を調和的でどかっとあるものと論じていて、端的な対立関係で考えている。論議の方法。自然が調和的だとするみかたも西欧の自然観にはある。ヘーゲルの体系では自然は精神の疎外態。

 Die Freiheit muss diess sein auch ihre Form sich gleich zu machen.(自由とは・・・自分みずからが自分にふさわしい形式をもつことです。(長谷川訳))

 自由をGeist(精神)としてみている。美学では彫刻は人間に等身となったとき、真の精神の達したといっている。スフィンクス→ギリシャ彫刻。

 dass beide(Freiheit und Natur) heraufgebildet,durch die Freiheit zu der Freiheit verklaert sind.(<自由と自然の一致が達成されるのは、>両者が磨きあげられ、自由の力で自由の神々しさをともども手にするときです。(長谷川訳))

 verklaert sind:浄化するような意味。

【新】自由が内的だといわれていて、時間、運動、歴史が抜けている。超歴史的でヘーゲルらしくない。

 自由を理念として論じているので、家族や国家の歴史とは概念の次元が異なるのでは。いずれにせよ自然法のヘーゲルのとらえかたが俗っぽく見える。議論の仕方でこうなっているので、しばらくは概念に拘泥にないで追っていくしかない。

(中澤)

02/07/04 出席者:長谷川、池内、大澤、中澤、加々見、鈴木、新浪

p82-86 von<Man kann das Vorurteil haben, dass eine buergerliche Verfassung zu tadeln sei,・・・> bis<Diese Subsumtion des Verstandes geht so die Philosophie, den Begriff nichts an.>

P15-P20「市民社会の体制は、権威を求め、権威への忠誠と服従を要求する点でまちがっている。」から「分析的思考による事例の処理は、哲学や概念とかかわるものではないのです。」(長谷川訳)まで

(本文概略)

b)実定法の形式的規定

  『要綱』§3

 「法(正義)が実定的だといえるのは、国家において承認されたという形式をもつからである。こうした立法上の権威が法の知識の原理となっているもの、それが実定法の理論である。」(長谷川訳)

 実定法学(Die positive Rechtswissenschaft)においては存在するものが正義である。哲学においては理性的に存在するもののみが正義である。実定法の形式は法が通用していることであり、内容が権威により与えられて、非理性的で、恣意的ものとなる場合もある。

 われわれは最近、権威であり、服従を要求しているとして、適切な法、制度が悪しきものと捉えられているのを目にしている。実定的なものは一般に概念に、各自の思考、意志に対立するからである。しかし、法は国家という現実世界の規定であるゆえ、実定的なのである。国家は第二の自然であり、飲食の法則と同様、この精神的現実の内容である法は個人により納得されるのを待つことなく、承認されなければならない。法の神聖さは主観的思念を超越していることだ。

 同時に、思考する人間は法の根拠を問わねばならない。だが、すべてのひとの心情にこの判断の尺度があるとするのは先入見である。法の本性を認識するのはやさしいことではない。実定法の成立には数千年にわたり、全人類がたずさわったのである。法を理解するとは、この世界精神に添うことであって、軽率な反省で事柄を片付けてはならない。

c)自然法と実定法の実質的区別

 法は内容に基づいても実定的であり、内容においても哲学は実定法と区別される。

§3の補足 内容の実定性1.

 概念はすべてを規定するものではない。理性が無関心な、正当化を存在するものの中に得る領域がある。国土の位置、歴史、国民の性格、宗教、生産力、気候などである。モンテスキューは法を遊離したものとせず、これらの要素との関連で見た唯一のひとである。

§3の補足 内容の実定性2.

 例えば契約は普遍的規定であるが、その経験的適用には様々な矛盾衝突が存在する。これを解決するのは形式論理(Verstand)の包摂であって、概念ではない。形式論理はその解決をよしとはしても、完全な解決をもたらすことは出来ない。理性は無限なるものを内容とし、無限なるもののうちで完遂するものである。有限なものには理性的内容は見出されない。すべてを規定する完璧な法は悪しき理想である。有限的なものにおいて法が個別的になればなるほど、矛盾の必然性、可能性、規定の多様性が嵩じる。概念はこのことと関係しない、これをその運命に委ねる。

(中澤)

(会の要旨)

  dem eigenen Denken各自の思考(実定法は概念に対立し、各自の思考・・・に対立する)

 通常、eigen(自分の)をヘーゲル哲学ではDenkenの形容に使用することはない。ここで修辞的に用いられているのは一局面から見て。

 die Gesetze,Verfassungen・・・muessen so die Gestalt von Naturgesetzen haben(法律や制度が・・・自然法則の形態をもたねばならない・・・)

 ヘーゲルは自身の考えとは別の見方に身をおいて語っているのか。ヘーゲルの視点はこのことも含んだ全体を見ている。

 Man kann das Vorurtheil haben,dass eine buergerliche Verfassung zu tadeln sei,weil sie Autoritaet verlange,・・・(市民社会の制度は、権威を求める・・・故に非難されるべきという先入見があるかも知れぬ・・・)

 当時の政治思想が念頭にあるのか、権威には一般的に反抗があるという考えなのか。

 【新】伊藤整「組織悪」には個を超えるものへの嫌悪が述べられている。

  die positiven Gesetze eine ungeheure Autoritaet fuer sich haben,die Autoritaet von Jahrtausenden, des ganzen Menschengschlechts.(実定法はそれ自体で途方もない権威を保持している。数千年にわたる、全人類による権威だ。)

 ヘーゲルは起伏のある思考を展開している。自身とは異なった実定法についての意見を語っているので、真意を取り違えないように。

 ・・・Was in Rechtssystem,・・・gekommen ist durch absolute Willkuehr,Gewalt・・・,alles was davon abhaengt ist seinem Inhalte nach auch positiv・・・(制約されない恣意、権力により法体系に加わったもの・・・、このことに依拠するすべてのものは、またその内容にしたがって実定的であり・・・)

 このことの例をなにか思い浮かぶだろうか?

 【中】生類憐みの令・・・。

 Diese Subsumition des Verstandes・・・(形式論理の包摂・・・)

 おもしろい表現。どの法令にあてはめるか、ということ。

(中澤)

02/08/30 (金)合宿1日目 出席者:長谷川、鈴木、中澤、池内、大澤、加々見

p.86−91 von<3.Das dritte Positive in Ansehung auf den Inhalt,・・・> bis<Diess ist・・・das Verhaeltniss der philosophischen Betrachtung zu dem was sonst Naturrecht geheissen hat.>

p20〜24「実定法の内容を実定的なものにする第三の要因は、・・・・・一般に自然法と呼ばれるものと法哲学との関係について、前置きとして述べておきます。」長谷川訳

 (本文概略)

§3の補足 内容の実体性3.

 「現実にものごとを決定する際に必要とされる細則」(長谷川訳)

 法は実行されなければならない。実行において決定される細かい規程は哲学的判断がされにくい局面である。ただ、この細目は恣意的に決められるのではない、なぜなら、法は施行されており、人々の生活、制度は現に存在しているものだからである。

 このことはとくに量的なものに関して生ずる。1ターレルか1000ターレルか、八日か二十年かというなら、まだ概念に考えはゆく、しかし、重罪で20年の刑に処せられた場合、どの裁判官も、これがまさに正当な刑であるとか、17年あるいは23年がむしろ正しいのだとかと、主張しようとは思いつかないだろう。八日、6ヶ月、20年は丸まった額で、他の数体系をもつ他の民族は同様な状況で別様に決めるだろうし、別の概数をもつ。これらはおおよその数であり、理性的根拠をもたず、絶対的に実定的なものである。

 質的には、この犯罪に適用されるのが罰金刑か懲役刑かというのも実定的である。

《3.法についての歴史にもとづく論及》

 法哲学と法学との第3の関係は哲学の論点と異なる法学の史実的論点である。法の根拠を問うことは両者に共通である。しかし、歴史的考察が法成立の必然性を示して、法の根拠を洞察する唯一の方法だと主張するなら、両者は矛盾するだろう。哲学は理性的であること、人間の真の正義が尊重されていることを目指している。

 歴史的根拠が非理性的と非難されることもありうる。例えば、インドにおける奴隷制が次のように正当化される。これらの奴隷は黒人たちのところでも奴隷であり、そこでは奴隷により過酷な運命が差し迫っている。奴隷制により土着民の重荷が軽減される。黒人たちは労働により適している。農園経営者は奴隷の所有権を持つ。植民地は消滅するに違いない。等々。このような正当化にもかかわらず、理性は黒人奴隷制が真の人間的かつ神的な法(正義)に矛盾するものだという主張を変えない。

 いまは理解されず、形骸となった規制にすぎないものが、かつては根拠と使命をもっていたと歴史的正当化は言い訳する。そのように修道院はかつて荒地の開墾と植民、学識の維持という使命を持っていたのだから、この功績がその存続理由だとされる。しかしながらこのことはまた、現在ではこれらは別の仕方で達せられているのであり、修道院は不当で有害なものになってしまった、ということでもある。

 常識が八つ裂きの刑を恐ろしいものと非難すると、正しい歴史的事実(根拠)に無知であると言われる。しかし、理解するとは歴史的根拠のみならず、事柄の理性を知ることなのである。理性が関与しない外的で干からびた内容になるほど、歴史的に根拠づける学識の敷衍(ふえん)が自慢されることになる。                                                 

 (中澤)

 

(会の要旨) 

(全)日本の刑法では少年法は重くする傾向。もともと少年法、無期刑は刑が軽い。これは犯罪抑止力より人権の配慮があったので。

  それに対し、犯罪被害者からみて、刑を重くしようとする傾向もある。

  心的被害についてはあまり重く見ない傾向がある。

  犯罪被害者をより考慮して刑を重くするというより、犯罪被害者のケア、保護、援助ということになるのでは。

  陪審員制度のない日本の裁判所には御上意識があるのでは(情状酌量etc)。アメリカは法廷がすべて。日本は客観的な法の決定力がすべてではなく、社会的情状や見解が判決に影響をあたえる。

  鞭打ちなど暴力的刑罰の消滅、死刑の廃止は人権意識のたかまりと連動している。

ヘーゲルは刑罰を犯罪者の更正のためとは考えてない。罪と罰のバランス、罪に対する罰との考え。心神喪失などの精神障害は、当時のヘーゲルにはごく特殊な例として自分の哲学に入らなくてもよいと考えている。

Es muss eine Entscheidung gefasst werden die keinen vernuenftigen Grund fuer sich zulasst und daher absolut positiv ist.「決定がなされねばならなうが、その決定たるや、それ自体に理性的根拠などなく、実定的にこうだと決めてしまうしかありません。」(長谷川訳)

absolut positiv istひぞくな意味。決まっているからそうする。

die Sklaverei in Indienインドの奴隷制?

修道院が宗教的目的とともに荒地の開墾と植民を使命としていたこと、・・・修道院とは性質がちがうが、朝鮮人の同化と徴用労働、日本兵のシベリア抑留、ソビエトの収容所など思想と経済が結びつくと、強固に長期にわたって非人間的扱いが存在する。おそろしいこと。

八つ裂きの刑はヘーゲルの時代にはなかったが、魔女の火刑はあった。具体的な話で講義をおもしろくしている。                                    

(中澤)