ヘーゲルを読む会

啓示宗教

02/01/31 02/02/14 02/02/28 02/03/14 02/04/11

02/01/31 c. Die offenbare Religion 啓示宗教  suhrkamp 版 p545~550 9パラグラフ  

出席者 長谷川、池内、大澤、合澤、加々見、中澤、鈴木、新浪の8名。

 Durch die Religion der Kunst ist・・・から・・・die truebe Nacht und eigne Verzueckung des Bwusstseins bleibt.まで。

 「芸術を通じて、精神は・・・・から・・・・意識をくもらす夜の熱狂の域をでるものではない。」 p505~p510 長谷川訳

(本文要約)

 「自己が絶対的実在である。」という軽妙な喜劇の精神は同時に、自己を述語へ引き下げ、実体を主体へたかめる運動を含んでいる。この逆転は自己意識によっておこなわれる故、精神は実体を対象とする意識であるとともに内的に自己意識であり続ける。

 芸術宗教は古典共同体に帰属していたが、今や古典世界は解体し、自己は抽象的ペルゾン(人格)としてローマ法のパンテオンへ収斂している。意識は内容を喪失して内的にのみ本質である。ストアの不幸な意識は自己内的には完璧に幸福な喜劇の意識の対極である。これは実体ならびに自己の完全な消滅であり、「神は死んだ。」という痛みである。

 芸術は大気、大地、樹木等のいのちからもぎ取られた果実のようにその生まれた共同体世界を内に被覆する想起となってしまっている。ただ、果実を渡す少女が自己意識のまなざしによって結実した果実の現実以上であるのとおなじく、被覆された現実を提示する運命の精神は想起的内化によって古典共同体以上なのである。精神は神々を自己意識という唯一のパンテオンへ集約する。

 この精神が出現するすべての条件はそろっている。ひとの誕生に比すれば、現実である自己意識は母であり、自体的実体は父である。実体は外化し自己意識とならなければならい。自己意識は自身を外化し普遍の自己にならなければならない。自己意識のみが外化して、精神的実在を対象と見ても、これは意識の立場から対象が精神的実在となっているだけで、狂信の空想にすぎない(新プラトン派)。実体の存在が外化し、自己意識とならなければならない。宗教の内的意味は自己意識の宗教ということである。  

 (中澤)

(会の要旨)

 3rd par: 《合》「パリのパンテオンにはユーゴやゾラ、啓蒙思想家が眠っている。」この箇所のパンテオンは一方で共同体から切り離され、空虚で普遍的な一ペルゾンとして、各個ばらばらに集うローマ法であり、他方では神々がそこへ収斂する自己意識である。 《新》「法は権力によりしばしば抑圧の道具となってきた。」《長》「ローマ法の抽象度は世界史的に際立っている。法は権力による抑圧の道具となる場合もあるが、どの法も成り立ちは一般的了解に基づいていて、単なる規制の手段ではない。ヘーゲルは抽象法については低い段階のものとし、Recht(法、正義)を市民社会の動きそのものから位置づけている。法のなくなる社会が想定できるかは疑問だ。」

 4th par:das unglueckliche Selbstbwusstsein 《長》「不幸な自己意識という言い方はめずらしい。」

 5th par:dass Gott gestorben ist.神は死んだ。ニーチエの神はまやかしの宣言ではない。かっていた神がいないという不幸な意識の嘆き。

6th par: 《長》「初期のヘーゲルを思わせる文学的表現。」金子訳注ではグロックナーの指摘から、果実をさしだす少女はシラーの詩Das Maedchen aus der Fremdeだとしている。使用されている言葉が同じであり、そうだろう。ただ、原詩の少女は早春の女神であり、ヘーゲルの言う運命の精神(歴史精神)は汲み取れない。ヘーゲルがこの少女で何を念頭においていたかは少し不明。このような詩が活用されるのは唐突である。巻末の詩といい、同時代のベートーベンが第九にシラーの詩使用していることといい、ドイツにおけるシラーにたいする国民的共感を考えさせられる。    

7th par:die verwuestende Wildheit der freigelassenen Elemente des Inhalts, 《長》「ローマ帝国のバラバラになって荒廃した様子」Elementeはローマ帝国の諸制度、機関。

8th par:er(Geist) eine wirkliche Mutter, aber einen ansichseienden Vater hat 《長》「キリスト教の神話をヘーゲルは排除する。生誕降臨も重要視しない。」ここでは現実の自己意識と実体の統一で生まれる精神をキリスト教のイメージになぞっている。

終了後、長谷川、池内、会澤、中澤の4人で乾杯、ビールのピッチャー1杯、ワイン4本を飲んで帰宅。

(中澤)

02/02/14 c.Offenbare Religion p.550~556  啓示宗教

9パラグラフ <始め>Dass dieseBedeutung des Gegenstaendlichen also ....und ihrer Allgemeinheit oder des Denkens.<終わり>

 「対象のもつ意味が、・・・・から・・・・イメージとは、感覚的な直接性とそれを一般化した思考とを合成したものにすぎないのである。」p510~515 長谷川訳

長谷川、池内、大澤、合澤、加々見、中澤、鈴木、新浪

(本文要約)

 対象的なものが思い込みではないという意味は、概念(生成の原理である思考運動の必然)による。また、この必然によって直接的対象は自己意識の姿をとる。概念の単一性は無媒介に存在であり、思考の存在と直接的存在の区別は概念自身のものである。精神が自己意識の姿となったとき現実の世界精神が己の知に達したのである。

 絶対精神が自体的に自己意識の姿となるのは世俗の信仰にとってであり、この信仰は神を見、触れ、聞くのである。信仰は内面の思想から出発して、自身の内で神の思想を直接の存在<Dasein>(キリスト)に結びつけるのではない。眼の前の直接の存在から出発し、その存在の内に神を認めるのである。そのようにしてのみ神は自己意識である。神的存在がひととなるのが絶対宗教である。それは神を精神として知ること、あるいは精神が己について精神であると意識することである。

 この宗教において神的なものが明示(啓示)される。自己としての絶対的実在(神)が意識の対象となる。意識にとり、神秘、異質なものはそこにはなく、意識は神との関係において、直接に自己を知るのである。

 神は精神であり、思弁的思考により到達されうる。啓示宗教の知はこの思考を存在として、この世のものとして、そして、この世のものを思考の否定力として知るのである。

 ただ、この最初の啓示は直接的で、それが現れる感性的意識に対し他者の形式をとる。直接的存在は過ぎ去り、遠ざかることで消滅する。

  精神は教団の成員の共通の自己意識として直接的自己でありつづける。この自己意識は自身の神のうちにやすらい、神は成員共通の主体となる。教団の意識との一体、教団のための個人、が個人のもれなき全体である。

(中澤)

(会の要約)

1st par.:《長》「受肉はヘーゲル得意の解釈。肉体として現れることと人間の姿をとることを二重写しに見ている。Das Sein oder die Unmittelbarkeit とは肉体。Der wirkliche Weltgeist キリストを現実の世界精神とみているが、ヒットラーや現人神天皇を知る現在の人間にはヘーゲルの進歩史観は素直に受け入れられない面もある。」

2nd. par.:《長》「dass es der Glauben der Welt ist, の es は次に続くdass der Geist.....Mensch da ist, 。fuer sein Bewusstseinは彼(キリスト)を見る意識。受肉の意味よりそれを受け止めることのできる精神のたかまりが重要。」《新》「神を見、触れ、聞く(ヨハネの手紙1・1)とはどうゆうことか。圧倒されてしまうのでは。」《中》「キリストとどう接するのか?父として?師として?」男であるキリストが中性的仏像とは違って権威のイメージに重なり抵抗があった。《長》「人としてそこにいるから見ることができる。キリストをこのように人間ととるのは当時異端だったと思う。」

3rd par.:d.h.insofern sie(Substanz)Subjekt oder Selbst ist.《長》「SustanzがSubjekt であるとはスピノザ。Akzidentalitaet はキリスト。Akzidentalitaet = Selbst,Subjekt  (人格神)になるのはキリスト教のみ。イスラムでは神のAkz.はAkz.のまま。」《大》「仏教の仏性=無は人間、Selbstではない。」《長》「イエスはSelbst(自己)である限りまわりのひとと同等、このような宗教は他にない。」

5th par:Gott ist also hier offenbar,wie er ist ; er ist so da , wie er an sich ist ; er ist da, als Geist.『神はそのようにしてすがたをあらわし、自分の本当のすがた-精神としての存在-を啓示しつつそこにある。』(長谷川訳)《池》「ヘーゲルの啓示の理解は独特。」ヘーゲルの啓示は神の摂理、計画あるいは威力が示されることではない、Gest(精神=聖霊)が神人としてそこに現れていることである。絶対的実在は彼岸にあるものではなく、ひとの精神として眼の前に存在する。

7th par:Dieser einzelne Mensch also・・・・・vollbringt an ihm als Einzelnem die Bewegung des sinnlichen Seins. Er ist der unmitllelbar gegenwaertige Gott ; dadurch geht sein Sein in Gewesensein ueber.《長》「ヘーゲルはキリストが死なねばならないと言っているようだ。」感覚的確信において“いま”は“さっき”となり、あるものはあったものになる。

 こののち長谷川、合澤、鈴木、中澤、池内、大澤でいつもの居酒屋へ。今日は学生が少なく、喧騒に圧倒されず、乾杯、話ができた。  

(中澤)

02/02/28 C.Offenbare Religion p.556-562 11パラグラフ

出席者 長谷川、池内、大澤、合澤、加々見、中澤、鈴木、新浪(円卓席位置右周順)

von Die Form des Vorstellens macht die Bestimmtheit aus,“ bis dem Garten der Tier,vertrieben wurde.“

p.515-521「そうしたイメージの形式こそが・・・」から「動物とともに生きる楽園から、追放されたのだ、と。」(長谷川 訳)まで

(本文要約)

 教団のイメージの内容は真であるが、イメージという形式は概念の契機を外的に関係付け、霊的(精神的)存在には彼岸と此岸の分離が付随している。内容の絶対精神は教団の実体であるにとどまらず現実に自己となること、自己のうちに反照することである。だから、精神の生命は、最初の不完全な教団や個人が実際語ったこと(外的で個別的なこと)へ立ち戻って得られるのではない。

 単一な自己自身にひとしい本質である精神は、この抽象的単一さであることで否定的なもの、自己からの絶対的区別であって、自己に対するもの、あるいは自己であり、概念である。教団の意識はこの対象化を出来事ととらえ永遠の神が他なるものを生むとする。

 純粋な単一である本質(神)の場にある精神は否定態であって、他なるものとなるものであるが、他なるものの内での本質(神)自身による単純な直観において、他なるものの存在自体は対象とされていない。永遠の本質と他なるものはそれらの本性上対立しない愛の承認である。―――しかし、純粋な思惟(Denken)の場で語られる精神は、ただこの場の中のみにあるのではなく、現実的なものである。その概念には他者、単に思考されただけの概念の破棄が含まれている。

 永遠の絶対的精神(神)の世界創造は概念の絶対運動に対するイメージのことばである。単一な本質は内面性の欠損ゆえに、他なるものに対する存在であり、その普遍は個別的なものへと分解する。

 個別的なものは直接におかれた自己であるが、精神としての自覚はなく、無垢に過ぎない。精神になるためには、永遠の本質が他なるものにおいて自己自身に等しくあるという運動として示されるように、まず自己自身に他なるものにならなければならない。素朴で散漫なこの精神にとって、他のものになるとは知が内向することである。たんなる感性的意識が思索の意識へ変転するのであるが、その思索は他なる存在を身に備えていて、純粋な知ではなく、善と悪の対立した思索なのである。善悪の認識の木の実を摘み取りエデン(労働のない動物の国)から追放され、自足(Sichselbstgleichheit)を失ったのは必然のない出来事であるというように、人間はイメージされる。

(中澤)

(会の要旨)

 2nd.par. p557.3-10(p516.3-4長谷川訳)《長》「イエスのこと、教団の信徒の意識、両方にとれる。」

《長》「ヘーゲルは原点を探しキリストの痕跡を捜し求めてもキリスト教の本質はわからない、後のキリスト教会をも含めた精神運動としてあるのだ、という。外山滋比古の書いた『古典論』では異本化作用をいく度となく、くぐり抜けて作品は古典として成立すると言っている。原テキストを求めればよいのではない。原稿だけでは古典にならない、いろいろなひとの解釈を経て古典は成立すると論じている。同じことがヘーゲル自身についてもおこっていて、死後すぐ刊行が始まったベルリン版全集に基づくグロックナー版やズールカンプ版が政治的配慮や拙速により編集に問題があるとし、評価を貶めようとする傾向がある。」《中》「客観的基準の文献学は必要だと思う。ただ、写本や講義録のような二次的資料には完全に客観的な根拠はない。」

 3rd.par. p.557.28-558.13(p516.15-517.5長谷川訳)

 《長》「モメントがおのおの完結し、他へ移行するという『エンチクロペディー』の中によく出てくる言い方。子なる神はひとである必要なく、むしろ論理としてみている。die synthetische Verbindung、合成的――否定的言い方。VernunftとVorstellungについては、ヘーゲルは哲学と芸術は並び立つと考えている。現実の生のある段階を透明にうつしだすものが<概念>。」

 6th.par. p.559.17-20(p.518.6-8長谷川訳)

 《長》「des Wesens,des Fuersichseins, des Fuersichseins・・・・・im Anderenは三位一体ととらず、論理の話と考えた方がいいのでは。des Fuersichseins oder Sichselbstwissens im Anderenは聖霊のイメージにあうだろうか。哲学では論理、自然、精神。」

 7th.par. p.560.22-28(p519.5-9長谷川訳)

 《長》「zu einer geschichtlichen Vorstellung、キリストの神格化の否定。神キリストが現れたというより、キリストを生み出す意識の展開になっていたということ。歴史的事実のうち思想にとって重要なのは、人間のあり方、論理の問題。」《新》「ナポレオンを見て、イエスの受肉を考えたのでは。」《長》「変わった発想だけど、ヘーゲルの深層意識ではあったかも。」

 8th.par.《長》「ein Anerkennen der Liebe、唐突、愛は父なる神と子なる神の間に言えるのか。」

 10、11par.《長》「天地創造、失楽園のはなし。イエスからアダムにはなしが変わる。父(抽象)がイエス生む、父(抽象)が世界生む、同じ論理になっている。精神が生まれることと自然が生まれること?ここのところは宿題。」      

(中澤)

02/3/14 C.Offenbare Religion p.562-568

5パラグラフ 出席者 長谷川、池内、大澤、合澤、加々見、中澤、新浪、鈴木の8名

<始め> von p562 Indem dies Insichgehen des daseinden Bewusstseins・・・bis p568 hat dieses aufgehoert ,vorstellendes zu sein; die Bewegung ist in es zurueckgegangen .

p521「素朴に生きる意識の内向が、・・・」からp526「・・・自己意識はイメージに依拠するのをやめ、みずから運動する主体となる。」(長谷川訳)まで

(本文の要約)

 善と悪の思惟は対立していて、いまだ解消していないため内向した素朴な意識は、自身を悪と見なす。しかし、この対立故に、善の意識がこの意識に対し現前している。そのように、最初生まれた光の息子(ルシファー)、この堕落した息子のかわりに、別の息子(キリスト)が生まれるといわれるのである。堕落とか息子とかは概念のモメントをイメージに引き下げる、あるいはイメージを思考の領域へ運び込むことである。これとおなじにどうでもよいことは、本質(神)の他在として一方に息子があり、他方に本質の栄光のみに生きる自立存在の外化(天使)があり、この自立存在が自立の撤回(善天使)、悪の内向(堕天使)に分化するとして、四位一体、五位一体などとすることである。これらのモメントを数えることは不要である。区別はこの区別であると同じに、一なるもの、この区別の思惟であり、思惟として一なるものだからである。単なる数量の区別は概念的ではなく、何も意味しない。

 人間は善悪の現実と争いが集合する場所となっている。しかし、善と悪は思惟の区別であり、善悪の普遍的威力は自己に帰属し、自己がそれらの現実である。

 神的実体の疎外は二重の仕方で起こる。一方では、神的実体が本質的であり、自然的存在と自己は非本質的で、破棄すべきものである。他方では、自立存在が本質的であり、単一な神的なものは非本質的である。この対立は、思惟と独立者の混在でなく、両者が思惟として対置するところで解決する。特定の概念として対立し、独立的なものとしては、それらの現実は対立の外部にある。ゆえにそれらの運動は概念の自由な独自の運動であり、自体的であって、自体的と規定されるものが運動を開始する。このことは自由意志によるものとしてイメージされるが、自体的なものは対立において自体的なものなのであるという概念が、自体的なものが外化する必然性の意味なのである。それにとり自立存在ではなく本質としての単一なものが重要であるものが、自ら自身を放棄し、死に向かい、そのことで絶対的本質と自己自身を和解させる。この運動において精神が提示されるのである。

 自己意識的実体の直接的現在が破棄され、自己意識は普遍的自己意識としてある。この自己は、これまでイメージの内にとどまり、今は自己自身へ帰った教団の設立を表現する。精神はその規定の第二の場、イメージから第三の自己意識そのものへと移行している。

 悪と善の統一は両者の破棄によって生ずる。なぜなら、内在的自立存在(悪)は単一な知(善)であり、自己なき単一なもの(善)は純粋に自己に内在する自立存在(悪)だからである。善と悪は概念にしたがって同じものであるが、同時にまったく異なっている。単一な自立存在あるいは純粋な知はそれら自身において、純粋な否定あるいは絶対的な区別であるからである。この両命題が全体を完成するのであり、同一性、非同一性を固定したものととらえるのは正しくない。                  

(中澤)

(会の要旨)

1st par :(長)dies Insichgehen des daseienden Bewusstseins はアダムとイブの哲学的表現。

der erstgeborene Lichtsohn(長)光の息子は旧約では堕天使ルシファーであり、キリストではない。(大)金子武蔵によると、「イザヤ書に光の天使が出ている。かわりに別の子が生まれるとあるのがイエスである」と。(中)ヤコブ・ベーメが聖書から取った。(長)とにかく、神聖な世界から落ちた堕天使。

Das Anderssein(天使) (長)ミルトン『失楽園』の天使の軍団の場面を思いうかべた。

2nd par : als das Anderswerden des goettlichen Wesens

(長)Anderswerden は具体的に何を指しているか。(新)正、反、合の反のイメージ。Vorstellenをヘーゲルは重荷と考えているが、私はもっと積極的に捉えたい。(長)神による天地創造と神の子イエスの受肉の二つをヘーゲルは考えていると思う。

4th par : ,so faengt sie auch dasjenige von beiden an , welches・・・

(長)sieが主語でanfaengt を他動詞とするのは文法的に不自然だ。

durch das zweite Anderswerden(長)これはイエスの死。ヘーゲルはイエスを歴史的人物としては扱っていない。

5th par : aber nachher, in der Entaeusserung des goettlichen Wesens, das Fleisch wird.(のちの、神の外化と受肉がそのあらわれである。:長谷川訳)(新)「肉となった父なる神が外化つまり死ぬ」と読むべきでは。(中)肉となることが外化だ。(長)普通には受肉。

Eben dies ist der Fall mit der Dieselbigkeit des goettlichen Wesens und der Natur・・・

(長)神と自然の関係も神と人間の関係も同等性や不同等性に固執してはだめだとヘーゲルは言っている。 

und mit dem Momente・・・ist es das Boese.(新)このesは形式主語で、dem Momenteが意味上の主語ではないのか。(長)ここではそう考える必要はない。

(長)善悪の話が途中から論理の話になっている。思考の運動を現実的に考えるむずかしさ。

論理学から自然哲学に移る際のむずかしさとおなじ。

 終了後、この読書会のホームページ開設の是非について協議する。

(中)各回の報告だけは輪番でお願いしたいので、参考までに報告例を作成したが。

(池)20年以上、記録は残してないので、あまり気が進まない。

(大)書き方はいろいろあっていい。誰かがやってくれればいいが。

(合)新規募集はいい。記録を残すなら、途中で時間をかけてまとめを話し合ったりしたほうがいい。

(加)企画はいいけれど、ここまでは書けない。

(新)予習だけでもたいへん。輪番であたったら、とてもできない。

(鈴)試しに書き取ってみたが、記録していると議論についていけず、後でまとめられるかもわからない。企画はいいと思うが。

(長)言い出しっぺの中澤さんがやれる範囲で、とりあえず試しにやり始めてみましょう。

*ホームページにどう載せていくのか、よくわからないまま、とにかく始まる。

  (鈴木)

02/04/11 出席者:長谷川、池内、大澤、竹長、合澤、加々見、中澤、鈴木、新浪

p.568-574 von<Der Geist ist also in dem dritten Element,・・・・・>bis C.Die offenbare Religion のおわり

p526~p531「かくて、精神は共同体の自己意識という第三の地平位置にするものとなる。・・・・・」から C.啓示宗教 のおわりまで  長谷川訳

(本文概略)

  神人の死はその直接的意味、この個人の非在から聖霊(精神)の普遍性へ変容し、聖霊(精神)の宗徒の中に生き、日々宗徒の中に死し、復活する。

  自己意識は特殊な人間が現実に死ぬと思われるように死ぬのではなく、特殊な人間の特殊性はこの特殊者イエスの普遍性、つまりイエスの知のうちで死滅する。この知はみずからと

和解する神なのである。対象を見る意識は自己へと、自己の概念へと戻ったのである。イメージの意識ではただの存在者であったものが主体となったのだ。

  自己により捉えられた仲介者(キリスト)の死はその対象性の破棄、あるいはその特殊な自立存在の破棄である。特殊な自立存在は普遍的自己意識となったのである。

  他方、仲介者(キリスト)の死は同時に自己として想定されていない神的本質の抽象が死ぬことである。なぜなら、その死が和解を完成しないかぎり、本質としての思考の単一さが現実と対立したままとなるからである。

  死は「神が自身が死んだ」という不幸な意識の痛ましい心情である。この過酷な表現はもっとも内奥で自己を単純に知ることの表現なのである。この心情はそれゆえ意識に対立する実体の喪失である。しかし、これは同時に対象であり、直接なるものであり、純粋本質である実体に欠けていた、純粋主観性であり、自己の純粋な確信なのである。

 精神は単に自己意識の内容、自己意識にとっての対象であるだけなのではない、精神はまた現実の精神なのである。精神はその三つの本性上の場を走破しそうなったのである。自分自身を貫くこの運動が精神の現実なのである。精神は運動の主体であり、同様に運動自身あるいは主体が貫き通る実体である。

 しかし、教団の霊性(精神性)はまたイメージの分裂を保持している。敬虔な意識は知の純粋な内向が潜在的には絶対の単一な実体であるという観点を、概念基づかない、よそよそしい償いの行いであるもののイメージとして捉える。意識自身の和解はその意識の中に遠い未来として生じる、それは別の自己(イエス)が実行した和解が遠い過去として現れるのと同じである。

 普遍的神人である教団は自身の行為と知を父とし、永遠の愛を母とするが、永遠の愛をただ感じるだけで、直に現にある対象として見ているのではない。教団の和解はそれゆえ心のうちにある、しかしその意識とは不和であり、教団の現実はなお分断されている。

(中澤)

(会の要旨)

《長》聖霊の段階はヘーゲルでは教団。キリスト教を宗教者の立場で考えていない。宗教の見方で考えるとヘーゲルは理解しづらい。論理の力と見ている。

《長》ヘーゲルがキリスト教について肯定的に見ている側面。○明示化○個人の自立○精神性

《長》Vorstellungイメージの教祖とGemeinde教団の対比は何に置き換わるか?

《新》生前のイエスとイエスの死後。

《大》語りと書かれたことば

《長》うのみと概念

Aber sie ist schon an sich böse ; das Insichgehen besteht daher darin, sich zu überzeugen,

daß das natrliche Dasein das Böse ist.  p569

「が、素朴さがすでに潜在的には悪であって、内向するとは、自然の存在が悪であることを納得することにほかならない。」 p526

《長》自然のなかの悪をかんがえているのでは?

es stirbt ・・・ ,sondern auch die Abstraktion des göttlichen Wesens. p571

「・・・ 抽象的な存在としての神が死ぬのだ。」 p528

《長》イエスの特別な神の立場の死。神が死んだ→神なくてもよい→実存的。

daß die Substanz hierin dazu gelangt, absolutes Selbstbewußtsein zu sein, dies ist ein Anderes für das andächtige Bewußtsein.  p573

「実体神がここで絶対の自己意識となるに至っていること・・・・を、信心深い教団の意識はわがものとしていない。」  p530

《長》 ein Anderes は信仰の意識に理解出来ないもの?あるいはイエスのもの?

(中澤)