ヘーゲルを読む会

法の概念

イルティングの作成による目次等の章立て
Was versteht man unter Naturrecht  自然法が意味するものp75
Verhältniss der Rechtsphilosophie zur positiven Rechtswissenschsft  法哲学と実定法学との関係p80
Das Recht als geltend  現行法としての法p84
Anwendung des allgemeinen Begriffs auf die besonderen Fälle  一般概念の特殊な場合への適用p85
Die Ausübung der Gesetze  法律の執行p86
Historische Behandlung des Rechts  法についての歴史的な議論p88
BEGRIFF DES RECHTS  法の概念p96
Verhältniss des Willens zur Intelligenz  意志と知性との関係p102
Das theoretische Verhalten  理論的行動p102
Das praktische Verhalten  実践的行動p107
Verhältniss des theoretischen zum praktischen Verhalten  理論的行動と実践的行動との関係p107
Die Natur des Willens  意志の本性p109
Das Wesen der Freiheit  自由の本質p109
Begriff des Willens  意志の概念p110
Inhalt des Willens  意志の内容p126
Die Willkuehr  恣意p131
Die Triebe und ihre Befriedigung  衝動とその充足p133
Die Glueckseeligkeit als Zweck des Willens  意志の目的としての幸福p134
Der unendliche Willens  無限なる意志p140
Die Subjektivitaet des Willens  意志の主観性p143
Die Objektivitaet des Willens 意志の客観性p145
Standpunkt der Kantschen und Fichteschen Pilosophie  カント哲学とフィヒテ哲学の立場p150
Die Pflicht  義務 p152
Die Methode  方法p158
本文概略の<>表題はイルティングによるもの

(本文概略)

<序論>

<Ⅰ.哲学的法学§§1-4>

<法の概念>

<§1“法哲学”の対象>

 「哲学的な法理論は法(正義)の理念を───つまり、法(正義)とはなんであり、それがどう実現されるかを───考察の対象とする。」(長谷川訳)

<§2“法哲学”の前提>

 「法理論は哲学の一部である。したがって、法理論は、対象をつらぬく理性にほかならぬ理念を、筋道の立った体系として展開しなければならない。いかえれば、ものごと自体の内在的な発展過程を追跡しなければならない。」(長谷川訳)

 法のイメージを外から受け取るのではない、われわれの目前には概念がある。概念はそれ自身命を持ち自らを規定する。われわれが概念のうちにあって概念把握するのである。これは偶然的主観の反省や思いつきではなく、概念はそれ自体で働くのであり、概念把握はきわめて主観的であるのと同時に、われわれはそのかたわらにいるにすぎないものである。

 法理論は特定の出発点をもつが、この出発点はそれに先行するものの結果である。

 法の概念の生成は法の学問には属さない。法の演繹はここでは前提され、法の概念は付与されたものとして受け取られる。

 哲学のはじまりは相対的に直接的であるにすぎない、直接的にみえるその始点は他の末端では結果である。哲学は直接に始まり、獏としたものへ出て行くのではない。そうではなく、哲学は円環をなすのものである。

<1.他の学問に於ける定義>

 哲学以外の学問では定義はイメージと語源から求められる。すべてのイメージにあてはまる定義などなく、種々雑多な定義がうまれる。最近は、定義より記述に重きがおかれたりする。しかし、定義は概念の表現であって、思考の単純であるが同時に普遍的である定義が法およびすべての精神的領域において必要とされるのである。

<2.実定法学に於ける定義>

 ローマ法では人間の定義は不可能である。《人間は考えるということ、そのようにして人間は自由であるということ。》この人間の定義は奴隷制により損なわれているローマ法において、矛盾と不当をあらわにしてしまう。悪しき法制度にとり定義は危険なのである。定義は法(正義)とはなんであるかを述べ立てることを目的とするからである。人間が自分の概念を捉えたとき、これに矛盾したローマ法の規定はもはや成り立たなくなっていた。

<3.思弁哲学の方法>

 人間を定義するなら、人間は命あるものであり、自己意識であり、思考するものであり、自由な命である。自由の必然性がそれ自体で必然的であると示されねばならない。かつ、自由は実現されねばならず、自由の世界と自由の体系をつくり出さねばならない。これがわれわれの出発点である。他の学問とは逆の道を進んで、内容である概念からはじめ、この概念に応ずるイメージとことばへ到る。われわれの規定と異なる法のイメージは沢山あるだろう。われわれはそれに関与しない。人間の概念に基づくものが真の法なのである。

                                          

(会の要旨)

 §1の前半は、理性的なものは現実的、理性は実現されるということ。プラトニズムの現実はイデアに劣る、とは異なりヘーゲルにとり実現されない理念は真の理念ではない。理念が実現されるとはキリストの受肉から。後半は、実現はどのような規定をもつかということ。

 §2:die Vernunft eines Gegenstandes(対象の理性)「対象をつらぬく理性」

 対象の合理的(理性的)あり方。

 Die Rechtswissenschaft hat als Theil einen bestimmten Anfangspunkt,welcher das Resultat und die Wahrheit von dem ist,was vorhergeht,und was den sogenannten Beweis desselben ausmacht.法理論はその一部として特定の出発点をもつ。この出発点はこれに先行し、この出発点のいわゆる証明をなすものの結果と真理なのである。

 先行するもの━━━「エンチクロペディー:精神哲学」の客観精神に先行する主観精神。

 《定義》はスピノザ「エチカ」を連想させる。

 実定法で定義からはじめるとむずかしいことになる。哲学の概念的定義に矛盾することになるから。たとえば、日本国憲法における天皇ははっきりと定義されているわけではない。歴史的経緯を受け入れての記述である。人間の定義は近代にいたってはじめて法に登場する。公的に天皇がいることは、日本人の人間の意識(人間の定義)の成立に影響を与えている。戦時中の日本において、日本人か朝鮮人かは人間である以上にもっと決定的だったろう。現在では、まだ問題は残るとはいえ、法的にも、社会的にも、われわれの無意識でも、日本人か朝鮮人かより人間であることが重くみられている。 

 ヘーゲルは<人間の意識>が誕生した歴史的経緯を考えている。                


<§4法の土台としての自由>

 自由が法の本体であり、使命である。法の体系とは自由が実現されたものである。

<意志の本体としての自由>

 自由のない意志とは空虚なことばである。それは単なる自由としての自由が現実的ではないのと同じであり、そうではなく、自由は意志、主体としてのみ存在する。理性とは本質上同時に精神なのである、つまり、この理性的なもの、この運動するもの、この主体性なのである。

<Ⅱ.意志の概念§§5-9>

<1.意志一般(§§5-7):意志と思考>

 理論的行動である思考そのものと実践的行動である意志とを二通りの異なった能力とする区別は空虚な観念上のことに過ぎない。区別はあるが、意志は思考の特殊なあり方、自己を現実に移し、自己に現実を与えようとする衝動としての思考なのである。

<1.理論的行動の成り行き>

 わたしが何か硬いものに触れるとき、わたしは圧迫を感じる。わたしは直ぐ、圧迫は何か硬いものから来るという。ふたつのもの(圧迫による硬さと硬いもの)はわたしの感覚において硬いのだが、本来はわたしの感覚(Gefühl)においてのみ硬いものはある。両者の区分がすでにわたしの中にあるものと外部に位置するものの分離である。理論的なものとは、そのようにわれわれが限定され、対象を見出すということである。

 精神の理論的活動はこの無数の対象から解放されること、この他なる、異質なるものを無化し、それを我がものとすることである。この同化の道程は、いわば解放の道程である。

  外的対象は特定の場所と特定の時間をもつ。対象はそのようなものとして表象(Vorstellung)化される。表象(イメージ)によって見るとは対象を特定の時空から解き放つことである。表象はわたしのものであり、この色、この音、この形といった内容は表象における一要素であるが、わたしに帰属している。そのように直観、表象、感覚はわたしのものと未知なるものとの混合である。直観ではわたしは、いまだわたしの外、ものの所にいる。表象においてわたしはわたしに至るのだが、内容はわたしにとって異質なものである。思考が最高の段階であり、経験的に表象の一部になっている素材を完全にわがものとし、変貌させるのである。

 思考はもちろんなお形式的であり、内容はあたえられる。概念がはじめて対象に穴を穿つのである。わたしは概念であり、精神は概念である。「わたしの肉の肉、わたしの骨の骨」とアダムがイブに言ったように、これはわたしの精神の精神なのであると精神は言う。異質なものは消滅する。

 対象を一般的のものにすることでわたしは対象をわたしのものにする。<人間>は一般的な表象なのであり、<人間>は経験としては存在しない。目の前に<人間>がいるとなると彼は年齢があり、容姿があり、あれやこれやの特質がある。ある個人についての表象自体がこれら特質の多くを取り去っている。<人間>という表象はそれに対し完全に一般的であり、思考に属する。思考とは一般的なものを活動させることである。

 わたしは完全に虚空で、点的で、単一であって、単一さに於ける活動である。わたしは思考であり、思考はわたしである。わたしと世界、世界のこの多彩な絵、内的あるいは外的世界はわたしに拠るのである。理論的活動によりこの分離、このとてつもない差異を破棄し、わたしは世界に憩う。

<・・・そして、実践的行動の成り行き>

 実践的行動は思考の最高点である自我自身によって始まり、分離を定立するのだから、理論的行動と反対のあり方である。実践の立場では自我は自我にひとしい、対象はわたしの対象である。わたしが行動するとは、わたしがわたしを決めることであり、つまり、区別を定立することである。空虚な無限の空間である自我が形象、決定をこの空間に描くのだ。

 第二に、わたしは決定がわたしのものだという意識をもつのであり、わたしが駆られる目的は、わたしに於けるわたしの目的である。

 第三に、わたしは実践においてはまず、この区別、この決定をわたしの外へ出す。つまり外的存在を与える。たとえわたしの決定をいわゆる外的世界に置いて他人に見えるようにせず、自分のうちで自分を陶冶(磨いて)して、知識を得る場合ですら、わたしはわたしの内に変化をもたらし、変化は存続し、わたしはかくかくのものになる。わたしの決定を外界へ送り出しても、わたしの行動はわたしのものという性格を保持しており、それはわたしの作品なのである。しかし、わたしのものであるが、もはや外へ投げ出された決定はわたしが制御出来るものではない。投げ出したものによって外的世界からわたしは把握され得る。他人がわたしのものを掴み触れることが出来る。他人の影響力に身を任せてしまったのだ。

<2.理論的なものと実践的なものの関係>

 理論的なものは実践的なもののうちにあり、知を欠いた意志は存在しない。欲求し、決意したものをわたしは思い浮かべ、意識する。この決意を意識することは理論的形式だが、本質的には実践的領域に属す。動物は本能に駆られ行動し実践するが、意志をもたず、欲求したものを思い浮かべない。意志は意識に中にある実践的なものの形式に近いものである。わたしは欲求するものを表象する、本質的に意識存在だからである。

 わたしが駆られるもの、欲求するもの、意欲するものはわたしにより定立される。けれどそれは一面であり、衝動はわたしに与えられたもの、わたしが拘束される内容である。内容が与えられたものであるのか、純粋に全般にわたりわたしが定立したものであるかというのは大きな違いである。この観点で、理論的行動は非常に重要である。衝動、欲望は第一に与えられたものである。その内容は思考により普遍へ高められなければならない。自然的内容を普遍的内容に高めることが思考というものである。

 理性的意志は諸関係の本質的なものに基づき決意し、この諸関係が意志の対象である。この本質的で真正なもの、この倫理的内容(dieser sittliche Inhalt)はその本性に基づき普遍的であり、思考によってのみ意志にとって存在する。

<3.意志の本性>

 法は自由に基づく。カントもまたこの見方を採るが、法においては即自由が制限されなければならないことに至る他なる事情*があると付け加える。この見方はわれわれの表現に背くものであろう。自由は法において実現する。法の諸規定は自由を制限するのではない。自由は法において肯定的であり、現在している。

*それゆえ、君の意志の自由な行使が、何びとの自由ともある普遍的法則にしたがって両立しうるような仕方で外的に行為せよ、という普遍的な法的法則は、私にある拘束を課する法則であるにはちがいないが、といっても、私がもっぱらこの拘束のために私の自由を上述の制約の範囲内に自発的に制限すべきことを、けっして期待するものではなく、ましてやそれを要求するものでもなくて、理性は、ただ、私の自由がその理念においてそうした制約の範囲内に制限されてあり、かつ事実上もまた他人たちによって制限されるいうことを語るにすぎない。そして、このことを、理性は、さらに論を進めて証明するわけにはけっしていかない一個の要請として語るのである。カント『人倫の形而上学第一部序言』「カント」坂部恵P342

 自由な自然的意志は形式的に自由なのであり、その内容である使命に基づいて自由なのではない。単なる自然的意志、このわれわれの自由は自由と不自由の混合物である。これは制限される。自由は法により実現されるべきであって、これに必要なのは道徳的なもの、並びに倫理的なもの(dasSittliche)と国家が内に含む全ての倫理共同的な領域(die sittliche Sphären)である。意志はその本質、その自由に従い実現されるべきなのである。真に自由な意志がその法(正義)に至るであろう。

 自由の章は精神にとって最も難しい章であり、この難しさがどこにあるかより詳しく考察されねばならないであろう。

意志の概念

<抽象と具体的概念>

 概念はそれ自身において具体的なものである。異なる規定の統一が具体的と言われるのであって、空虚な抽象の統一は概念ではない。抽象的なものは容易に把握できる。それに反し、具体的なものである自由はより難しい規定である、自由においては異なる規定が一つに把握されるからである。

§5<a.普遍性>

<1.純粋な無規定性>

 人間はすべての内容を捨象し、それから自由になることができる。どのようなものであれ思い浮かぶ内容を捨てさって、わたしは自分をからっぽにすることが出来る。単にわたしはわたしであり、この自我は完全に純粋な自我であって、すべての規定は取り去られている。

人間はあらゆる内容を受け取ることが出来る自己意識をもつが、また友情、愛情、その他どの様なものであれあらゆる絆を捨て去ることも出来る。動物は自殺しない。人間は自分の命を終わらせることが出来る。自殺はすべてを捨て去ってしまう可能性の刻印である。

 人間は自分自身の純粋な思考だ。思考する故にのみ人間はあらゆる特殊のもの、あらゆるしがらみを抹消し、自らに普遍性を与える力を持つ。意志は思考なしには存在しない、意志の自由には完全な無規定性という契機が含まれている。特定のものを破棄し、普遍なものをおくこの活動は思考である。

<2.否定的自由>

 あらゆる規定を捨象する絶対的自由、制限となるあらゆる内容からの逃避は否定的自由、悟性の自由である。この規定は一面的であっても、本質的規定であり、投げ捨てるわけにはいかない。しかし、この悟性の自由の欠陥は一面的規定を唯一最高の規定へとまつりあげるところにある。

<3.否定的自由の歴史的諸形態>

 この空虚を求める自由は単に理論的なものにとどまるなら、インドの宗教の狂信的純粋観想である。これは人生のすべての活動を放棄し、空虚な内面性、無色の光のような純粋直観のうちに留まることである。現実に向かうなら、宗教改革後のミュンスターにおける騒乱やフランス革命の狂信となる。この政治、宗教上の狂信はあらゆる秩序を破壊する運動である。自由、平等を目的としたフランス革命においては、革命が作り出した制度さえ何か固定的なものを形成しようとしていると思われ、平等をめざす抽象的自己意識を体現する民衆により破壊された。

以上が自由の第一の契機である。

§6<b.特殊性>

 第二の契機は自我がその無区別の漠然から確たる内容と対象の設定へ転じることである。私はのぞむ、私は何かをのぞむのであって、この何かは特殊なものだ。普遍的なものそのものである意志、抽象的に普遍を求める意志は、何ものも求めず、それゆえ意志ではない。ただ自由のみを求める自由は自由を対象、現実として求めるのである。意志は意志として何か特殊なものを求めねばならない。何かが求められなければならないということは必然なのだ。普遍と特殊が概念であり、世界の普遍的区別だからである。

<1.意志の限定>

 行動を起こすべきなら、何かがのぞまれねばならず、これは限定するということだ。

<2.有限なものを逃避>

 抽象的無限は本質的に否定的なものであり、この無限は真なるものではないというのはすべての思考にとり重要な言葉である。普通のイメージではこの抽象的無限は有限なものよりはるかに優れたものとなっている。ひとは全ての特殊なものを去り、それから逃れ得ることが自由だとしている。この逃避は本質的に一面的で、それに有限なものが対峙している。抽象的無限と有限なものそれぞれが相手おける制限となって、双方ともそれ故限定され、有限なのである。

 私は自由であり、私が何かをのぞむということにおいて私は私を自由だと認識する。

<3.意志の内容>

 意志が志向するこの内容は自然から来るか、精神の概念から産み出されるかである。わたしは衝動、欲求、素質をもち、これらはわたしの意志の内容と成り得る。あるいは、内容は精神の概念から生じる法や人倫である。

 わたしは衝動を超越するが、同時に激しい感情においては自由を失い、その場合衝動を制御できない。人間は我を忘れる、たとえそれが彼の怒り、彼の感情であっても。

 自覚的な自我、純粋な自我としての人間は自分のもとにある。それゆえ、衝動は一方では自然による規定であるが、それを超越して自我は確定されないものであり、自分のもとにあるものなのだ。自然衝動がわたしのものであるのは、わたしがそれを自然のものとし、そのことで自らを限定するという意味においてのみである。自由な人間において自然衝動は自我が自らを限定する限りで重要なのである。

<4.人間の矛盾する本質>

 第一にすべての特殊の否定、第二に無規定の否定、このふたつの意志の要素、このふたつの規定をあらゆる人間が自己意識のうちに見出す。それが自由である。人間は矛盾そのものであり、矛盾によってのみ意識を獲得する。精神とは単に矛盾を生きることのみではなく、その解決でもある。精神が意志の概念だ。

<5.思弁と常識>

 互いに矛盾する特殊の否定と無規定の否定の統一が意志の概念である。このことは常に真なるものなのであり、真なるものは異なる規定の統一として具体的に存在する。第三項であるこの統一は思弁的に把握できるものだ。そしてこの把握はむずかしい。                     

 最近、思考や思弁や形而上学に風当たりが強い。直観、感情、常識に拠るべきだといわれている。常識は実際に具体的なものを確保することである。直観は自体的には全体性であり、まるごとのものだ。抽象知性が反省規定にはまり込み一方の規定を固持し、他を破棄して、一方のゆえに他を忘れ、一方から他方へ考えなくうつるのである。常識といわれるものが具体的なものを扱うなら、哲学はそれと一致する。ただ、常識は分析をせず、具体的なものの規定を考えない。常識の価値はあるのだが、まったくうわっつらだけの習慣や、劣悪な先入見もまた常識と見なされている。哲学は分析の反省のように規定を考えるが、それをひとつにまとめ上げる。哲学は概念の本性を含む真としての具体的なもののみを認識する。

<6.普遍性と特殊性の思弁的一致>

 自我の無規定性としての普遍性と自我の特殊性の統一は個別性と呼ばれたものである。この個別は純粋な意味での主観だ、全ての人間は個々別々だという意味の個別ではない。個別は概念に基づけば普遍と特殊の統一である、個別性はこの意味をここでもつのである。

§7<C.個別性>

 意志がこの両契機の統一であり、自己へ反省しそのことによって普遍へ還った特殊性、つまり個別性である。

  自我は自己自身への否定の関係である限りで自己を規定する。自己へのこの関係として自我はこの規定態に無関心であり、規定態を自分の観念的規定態として、単なる可能性として知る。規定に自我は拘束されない、自らをその中に据えるゆえにのみ自我は規定の中にあるのである。

 これが意志の自由だ。自由は意志の概念もしくは実体をなし、意志の重力なのだ。重力が物体の実体性であるように。

<1.限定の中で自己の自覚>

 私は歩いていこうとする。歩いていくことは、すでに、立っている、横たわっている、考える、空想する等々に対する一つの限定である。しかし、歩くというこの特殊態は私の特殊態であり、私はそのとき私自身を自覚している。ただ、歩くことは私が見たり、考えたりする全てを含むわけではない。歩くことはそのように<私>には対応しないが、その際の私の反省は<私のもとにあること>なのである。この<私のもとにあること>において私は普遍なのだ。

<2.普遍と特殊の相互浸透>

 自我はたしかに普遍なるものなのだが、特殊と対立することで、それ自身特殊である。真の普遍性は両者の浸透である、そのとき普遍と特殊が本質的なものとして把握される。これが意志の概念であり、これをわれわれはわれわれの意識の中にもつのだ。

<3.自我のもとにあることと特殊に没頭していることの均衡>

 ひとは我を忘れる。激しい感情にとらわれるなら特殊な目的についての意識は自我としての意識から区別されない、ひとはまったくそれに没入している。そのように特殊と普遍はひとつになっている。これが意志の概念で、この意味で個別性とよばれるものである。その中で私がわたしのもとにある内容はわたしの内容であり、またわたしに帰属する。

 感覚的直観では内容は別ものだ、わたしのもとにあるとは単に形式的であるにすぎず、自己的なものは単なる一面に過ぎない。感覚的直観はだから真ではない、内容がわたしと一致しないのだから。真理は故に精神的内容をもつ精神の中だけにある。

 われわれの論述の目的はとにかく内容と《自我の普遍性》の均衡である。

<4.肯定としての否定の否定>

 われわれはまず自我の空虚な普遍性をもっている。第二は特殊化だ。わたしは目的をもち、何らかのものを選択する。これは自己意識の純粋普遍空間から抜け出ることであり、それに対し否定的なものである。自我の普遍性は肯定され、それから否定される。しかし、よく見れば、第一の無規定は肯定でも真でもなく、すでに否定的なもの、単に抽象的で真ならざるものである。そのように制限は否定の否定、つまり肯定であり、第二の否定である。第一の否定=純粋自我空間、第二の否定=何らかの決定。そして、《そのときわれわれが知る》というこのことが第三のもの、否定の否定、絶対的否定、否定性の否定である。

<2.意志の規定性:活動としての意志(§§8-9)>

<1.主観的なものと客観的なものの間の媒介としての活動>

 われわれは目的をもつが、その目的は主観的である。それをいま客観化しなかればならない。そして、われわれは目的を実行する場である世界や対象や素材に直面する。このように主観と客観は分離している。

 私の目的は不完全であり、実行されるべきものだ。目的はそのように否定的である。他方、状況や関係もわたしの意図、目的とは異質であり、あるべき姿ではなく、否定的だ。わたしはそれらを変えようとする。

<2.否定の否定としての活動>

 私は両方(私の目的と外的状況)の欠如を取り消す。私の目的は客観的であり、他方外的世界は目的に沿いもはや単に客観的なのではない。すべての行動とはそのようなものだ。これはまったく抽象的概念である。

 第三のものは、行動、実行された目的であって、このような区別の真の具体的な統一なのだ。これが人生の魅力だと言えるのである。

 ひとが彼の普遍の中に留まるなら、満足は得られないだろう。つねに制限の中にあり、ただ有限のはかないものとのみ拘らねばならないだろう、そして、彼がその中で有限なものにどう耐えることができるかは理解されない。どんな些細な行為における満足も私がその行為において私が私自身を維持し、普遍なるものとしてあるということだ。やすらぎは私の中にある。有限なものと関わる反省の立場ではひとはやすらぎをもつことはない。しかし、行為において彼が自己を維持するなら、そこには敵対するものは存在しないし、敵対するものが対峙することはなく、この内容の中にひとは自分を得る。彼が行った全ての中にひとは現在する、そして、これが意志の自由なのだ。

<3.繰り返し:§9への移行>

・・・・・・・・・・・・・省略・・・・・・・・・・・・・

<4.植物、動物、人間における欠如>

 植物もまた対象を自分のものとするが、ただ外的にそうするにすぎない。動物においては衝動や意志が直接現実へ移行する。思考がはじめてそのうちにあるものと外に客観的にあるものとの裂け目をつくり出せるのである。意志決定は絶対必然なものではあるが、同時に意志決定が主観的であることは欠如であり破棄されるべきものだ。内容はどうのようなものであれ、ここでは意志に関係しない。

<5.目的の実行>

・・・・・・・・・・・・・省略・・・・・・・・・・・・・

<6.主観的目的と実行された目的>

 目的は実行される。人間や理性が未熟で、望んでいたのとは何か違ったものを産み出す場合をのぞいて、実行は内的内容としての以前の内容と異なった内容をもつわけではない。実行される内容はその際何も失わない。この内容はここ(意志規定)では本質的にわれわれと関係しない。実行において同じものでありつづけるのは本質的に必然な意志規定である。意志規定にとって固有でない対象はここで考察されない。この対象はただ消えゆくのみだ。対象の規定もまた確定されなければならない、しかし、重要なのは必然的な意志規定である。この対象たることは意志自身から規定される。

§9<思念された目的と実現された目的>

 第二のものは内容に関する意志の特殊化である。意志規定が意志自身の規定であり、意志の内へと還った特殊化である限り、意志規定は内容である。意志の内容としてのこの内容は意志にとっての目的だ。

 意志規定は意志自身に属する内容であり、一方では内的目的としての目的であり、それから実行された目的としての目的である。

 内容の本性をさらに詳しく考察しなければならない。

<Ⅲ.絶対的に自由な意志の抽象的概念§§10-24>

§10<潜在An-sich-seinもしくは自覚Für-sich-seinと絶対An-und-für-sich-sein(真無限)>

《1.自然的なものとしての潜在的概念》

 まずはじめに概念に基づいてあるもの、単に潜在的に存在するものは、ただ直接的、自然的にあるのである。子供は潜在的に人間なのであり、まずは理性や自由の可能性をもつのである。種を思い浮かべてみよう、種は植物の概念であり、潜在的に植物である。花や実や枝のかたちはすでに種の中で完全に規定されている、何かが微小なものの中にあるのではなく、理念的に種の中にある。本質的規定はあるのであるが、葉が千枚になるのか、二千枚になるのかという偶然にふさわしい事柄があるのではない。さしあたってそのようにただ潜在的にあるものは、その現実の姿であるのではない。

《2.潜在しているものの実現》

 この区別は重要である。概念が実際の姿を決めるのではない。人間は潜在的に理性をもつものではあるが、それを自覚するためには、自己を出て、自己において教化され、自己を作り上げるということをやりとげなければならない。潜在的に存在するものは単に自然的なものである。この潜在的な自由意志を考察する。衝動とその反省である恣意が対象となる。

《1.自然のままの意志§§11-13》

§11<衝動、欲望、素質>

 さしあたって潜在的な姿をとる自由意志は、あるがままの意志、あるいは自然のままの意志である。概念の自己規定が意志にもたらす区別のかたちは、あるがままの自然の意志においては、衝動、欲望、素質であり、それらを通してあらわれる意志は自然によって決定されている。

《1.自然のままの意志の有限性》

 この内容(衝動、欲望、素質)は意志の理性的なものに由来し、潜在的には理性に基づくのであるが、このような直接性の形態に溶解している場合、いまだ理性的なものの形をとっていない。この内容はわたしにとっては大体わたしのものなのであるが、このわたしのものという形式とあの潜在的な内容はなお異なっている。この意志は、そのようにそれ自身においては有限な意志なのだ。

《2.自然的なものと自由》

 国家は自由が必然的に行き着く先だが、また、人間は国家社会への生まれながらの衝動をもつとも言うことが出来る。違いは、前者は理性に基づき言われているのである。単なる衝動としての人間は、人間の本当のありさまではない。

《3.衝動の理性的なるもの》

 すべての衝動が理性的であるわけではないが、すべての理性的意志決定は衝動としても現れる。自然のままの意志は、理性と対立しもしくは偶然に理性とそぐわないものにもなり得る。このような衝動にわれわれは関係しない。理性の展開がもたらす衝動のみがわれわれの関心の対象である。
 ねたみや悪意の衝動、これら衝動は概念に拠らない、偶然的で非理性的なものだが、これらの衝動や、例えば、狩猟への衝動がひとを没頭させ、非常に重要な確固たる関心となったとしても、このような偶然がもたらす側面にわれわれは関係しない。

《4.理性と関心》

 人間は自分が求める理性的なものへの衝動をもたなければならない。みずから居合わせ、参加しなければ人間はなにも為すことは出来ない。このことは、特殊なものにおいては自然性の規定が関与するという概念展開の一契機なのである。

§12<決定するもの>

 意志は決意し、決定する。決定は個別性の形式である。決定と決意はここでは同じことだ。私はあらゆる衝動や欲望やらの可能性である。決心するとき、ある内容が立ちのぼってくる、私は決意し、それによって、決心することによってのみ得ることができるあり方を自分に与える。

§13<決定する意志の有限性>

 自然のままの意志は衝動の満足を求めて決意する、何かを意志し、意志する限りで自由である。その際、内容は形式的に自由なのである。私があれこれをのぞむ、このことは私のものだ、その点で自分のものとにあること、それは自由の側面だ。しかし、不自由は自然により決定されていることだ。私は決意し、そのことで拘束される、私によってのみ拘束される、しかし、衝動の内容によっても拘束されるのである。

《2.反省する意志§§14-20》

§14<選択する意志>

 多数の特殊な内容があり、意志がその上にある、このような内容は意志にとり必然なものとしてあるのではない、内容は意志がそれに決めることによってのみ重要なものとなる。決定された内容も他の内容も同じように私の前にある、私が決定するものなのであり、そこに選択ということがある。

§15<勝手気まま(恣意)の自由>

 勝手気まま(恣意)には二つのことが含まれる、あらゆる内容からの抽象と与えられたの素材(内容)への依存だ。

《1.勝手気まま(恣意)》

  内容は私が抜け出ることのできない領域であり、私にとつての可能性を含んでいる。私が決意し選び取ることができるものは、自然の、外的に与えられた内容に属している。

《2.反省の立場》

 勝手気ままということは、また偶然に左右されることでもある。この領域には理性規定は存在しない。理性の決定は自由であると同時に必然なのだ。ここで決め手となるのは、欲求、欲望、衝動だ。私があれこれを選び、そのことの正当な理由を有している場合もあるだろう。そうなら、私は勝手気ままに行動しているようには見えない。しかし、私が意志し承認するものが、私の反省を引き合いに出して言われる限り、この理由は、何か限られた、恣意的なものに過ぎないのである。理由が本当に影響力をもち、心を動かすものなら、聖職者は彼らの理由を語ることでもっと影響を与えるだろう。しかし、心を動かされるかどうかは聴衆にかかっている。

《3.基準の欠如》

 恣意的な意志のこの領野には究極の理由はない、私の理由だけが存在する。私利や都合が問題なのであり、私のものも、他人のものも、同じように、断念したり、理由とすることができる。特定の内容のために、その内容の基盤をなすもの全体を放擲出来るし、命さえ放棄出来る。

§16<反省的意志の有限性>

 意志は、選択したものを破棄できるし、代わりに定めた別の内容をも、この可能性によって、無限に凌駕できるが、有限性を抜け出すわけではない。なぜなら、意志が選ぶあらゆる内容は、意志の形式とは異なり、有限で確定性とは反対のもの、曖昧であり抽象であって、有象無象の同じように一面的な要素にすぎないからである。

 決意しない場合も、私は有限性を抜け出るわけではない。非決断は現実を欠く。自分の漠とした有様の純粋な観照にとどまることは、有限な内容の決定の対極であり、限界のうちにあることだ。

§17<衝動の弁証法>

 勝手気まま(恣意)の矛盾は衝動の弁証法だ。衝動は互いに妨害しあう、一方の充足は他の放棄である。衝動は決まった方向に向かうだけで、その内に尺度をもたない。恣意が用いるのは打算的な知恵だ。どの衝動において、あるいはどういった勝手な斟酌によれば、衝動のより大きな満足が得られかということである。

§18<衝動のアンビバレンス(両価性)>

 人間は生まれつきvon Natur善良なのだとよく言われる。衝動は本性上von Natur悪しきものではなく、たがいに均衡を保つのだから、よきものなのだという具合だ。<よい>とは曖昧な言葉である、それは道徳の箇所で詳しく語ろう。<よい>は前提として目的をもつ。しかし、衝動の目的は衝動である。衝動はそれがあるからあるのだ。もし、ある衝動が別の衝動の不充足をもたらすなら、私はその衝動に抵抗しなければならない。私はひとつの衝動であるのではなく、衝動の束なのである。ひとつの衝動だけを満たすなら、破滅しなければならない。この否定的な面を捉えれば、衝動は悪である。

 単なる衝動に支配されれば、ひとは悪人である。人間は生まれつきのままにとどまるべきではない。

§19<衝動の実体的本質への還元>

  衝動には理性の形式がかけているに過ぎない。衝動は偶然的なものから引き剥がされ、衝動の実体的本質へ戻されなければならない。たとえば、職場のつながりにおいて、ひとは人倫社会という実体的あり方で、社交衝動を発揮していると言える。

§20<幸福>

  調和し、従属しあい、互いに矛盾しないような衝動全体の充足を思い浮かべ、この幸福の理想を人間の目的とするのが幸福論Eudämonismusだ。この目的の意図から生じるすべては道徳的である。

<1.カントの幸福論>

  カントの哲学が提起した思想とは、理性は自律していること、理性はそれ自身に基づいて目的を決めるということである。精神的なものとしての人間にとっては、自然衝動は他なるものであり、他律的だ。ひとが己自身の中に確固としたものを知るこの思想において、自律の概念は大きな転換をもたらした。カントの哲学に見られる幸福論はこの考えに沿っている。

<2.ギリシャ人の幸福論>

  クロイソスは幸福が大切だと考えたが、ソロンもクロイソスに幸福以外のもので反論したのではない。ただ、幸運の持続が幸運であることの成立要件だと説いたのだ。人生が終わってみなければ幸福か否かは分からない。厳粛で充足した行動において死んだ者達、これらの者達がギリシャ人の幸福な人間なのである。ソロンは死が幸福の本質をなすと言ったのではなく、ただ死だけが個体の静止Ruheを完璧にすると述べたのである。

  エピクロスの幸福は精神の安らぎRuheであり、無頓着(解脱)Gleichgültigkeitであって、非常に高尚なものだ。

<3.衝動の調和的充足の理想>

  個々の衝動は充足を求める。思考としての私はひとつの衝動の満足で諸々の衝動が消されないよう配慮しなければならない。私は欲望の素材に共通性を作り出し、衝動相互が従属関係に置かれなければならない。それぞれの衝動が認められ、それらから何かが取り除かれたとしても、それぞれがその持ち場で充足に至るのである。しかし、衝動の調和には教養と呼ばれるものが含まれるのであり、そして衝動の調和的充足の欠陥がある。

<4.教養:衝動の制動>

  見境のない衝動の充足をわれわれは野卑と呼ぶ。復讐心を満たす者は愛や社交の衝動を損なう。そのように、衝動の制動は理由のあることなのだ。思考や自覚の否定力を衝動がもつ一面性に対し行使しなければならない。この制動により私は衝動の拘束を凌駕する。

<― 普遍性を顧みた衝動充足>

  次は、普遍性を顧みた充足の仕方である。衝動充足の結果を反省しなければならないが、私の内の他の諸衝動も顧みなければならない。この比較と反省が教養である。教養には具体的なものの分析、眼前のものの識別が欠かせない。教養ある人間は、なんらかの衝動に際して、非常に多様な相違を見ているゆえに、この個別の衝動自体を絶対的に重要視することはない。識別されたものは普遍性の形態へ移される。次いで、目的の普遍化、私がのぞむものが私にとり普遍性のかたちをとらねばならぬということが生じる。幸福のこの目的においては、これやあれやの衝動ではなく、衝動充足のための手段の範囲を配慮しなければならない。幸福が不動心Apathieとされるなら、私の目的は普遍なるものであり、乱されぬ安らぎ、私の生き様Existenz、ひとつの状態である。普遍的な目的は思考の領域に帰属している。

<5.幸福論Eudämonismusの欠陥>

  次に問題にするのは幸福論の欠陥であり、それが自由への移行を根拠づける。

  衝動充足において、私は単に個別者として振舞うのであって、普遍者としてそうするのではない。幸福の内容をなすものは、その本性にそぐわぬ普遍性を持つべきだ、とされているのだ。いかなる衝動も特権をもたない、衝動はつねに特殊なものであり、ここにはあるべきだとされる原理がない。幸福は不透明な観念のままだ。

<6.幸福と自由の矛盾>

  自由を精神的な衝動と見るなら、衝動は特殊なものにとどまるゆえ、自由には他の衝動に対しどのような優位もないのだから、幸福と自由の矛盾は際立ってあらわれる。

  幸福は衝動という自然規定を内容とする。衝動の充足は私を依存と変化にさらす。私は外部、自然の力からくる変化にさらされる状態におかれる。自然の規定は自由の形式がもつ普遍性に対立する。そのように、幸福の原理はより高次の自由の原理に矛盾するのである。

<7.幸福から意志自身の自由への弁証法的移行>

  幸福の理想はふたつの要素をもつ。第一にそれは私にとって普遍的なものであること。第二は空虚な抽象ではなく、はっきりと特定できること。第二の要素は衝動にしかない。衝動は相互に整序されるべきだが、その場合の規定は偶然によるものだ。衝動の規定は普遍性をもたない。求められているのは、自由な普遍的規定、ほんとの規定である。それは自ら自身を規定する普遍的なものだ。
 
  それは意志の自由である。対象、目的、関心は意志にとっての規定であって、規定と普遍の一致は意志においてあることである。意志が自由なものとして自己自身を規定するというのが、この形式的普遍性の真理である。普遍性が自己自身を普遍的形式として、内容とするのである。それは主体性、全体的決定つまり、自己完結した決定、魂、それ自身において普遍的な、活動性としての自我と言われるものである。

《3.絶対的に自由な意志Der an-und-für-sich freie Wille§21-24》

  幸福の理想から意志へと移行し、我々は自然衝動の形式をはなれる。自由な意志としての意志は上述部分(幸福の理想)の真理であり、幸福が含む矛盾の解決である。

§21<自由の理念>

  自由を自覚する意志は自らを意志する意志であり、絶対的な意志である。これは意志の概念であり、理念の概念である。概念が現実の姿なっているのが意志なのである。

  自由を自覚する意志が成り立つのは思考の活動によってである。意志の中に貫かれる思考として、自己意識は対象、内容、目的を普遍性へと純化し、高める。意志は思考する理知としてのみ真の自由意志なのである。

§22<現実―無限なるものとしての自由意志>

  その対象が意志自身であるのだから、絶対的意志は真無限である。さらに、この意志は単なる可能性、素質、能力(potentia)であるのではなく、現実となり、外的対象となった概念は内的なるもの自身であるのだから、現実的に無限なるもの(infinitum actu)なのである。

<1.自由意志の無限性>

  自由意志は真無限だ、対象反省の、数や時間や空間の果てなき無限、悪無限ではない。悪無限は否定的で、彼岸にある無限である。真無限は現在の、現実にある無限だ、この無限で思想や反省はそれ自身に還るのであり、限りのあるおわりではなく、真のおわりを見出す。それは果てなきおわりであり、制約なき、自己決定する意志のおわりである。他なるものの関わるとき、私は制約を受ける。それに対し、私は自分にとどまりながら、自己にとっての対象となるのであり、自己にとって自己が目的となる自由意志である。

<2.自由意志の現実>

  自然な意志は有限の意志であり、他なるものの許にあり束縛される。我々の背後にさまざまな形態をとった自然な意志から自由な意志への道程がある。

§23<自己のもとにあることとしての自由意志>

  意志が意志するのは自由だけだ。ひとは、絶対的自由にとどまる限り、自己のもとのみにあり、真に思慮している。

<真理としての自由意志>

  自由意志は真理そのものである。なぜなら、真理とは概念が概念に合致することだからである。自由意志は概念であり、概念が現実の姿となったものなのである。私の観念の対象との合致としての真理は真理の副次的ありかただ。私の観念はそれ自身において観念と対象に分裂している。対象は精神的にか感性的に与えられ、そのように対象がそれ自身において真でないということがありうる。それに対し、純粋概念はおのれ自身を目的と対象として観るのである。

§24<自由意志の普遍性>

  自由意志は普遍的である。自由意志においてはすべての制約と特殊の個別態が破棄されている。概念とその対象あるいは内容、概念の主観的自覚とその潜在、概念の排他的に決定する個別態とその普遍態、これらの区別の中にある制約が取り払われている。ここでは制約されていること自体が普遍的である。

                                                                                                               

(中澤)

*********  つづく  *********